ファクトチェック依存は危険! 司馬懿に学ぶ、戦時情報への向き合い方

〔雑談。常体記事〕

SNS等でよく「デマに気を付けて! ファクトチェックをしてください!」などと叫ばれているが、あの呼び掛けに何の意味があるのだろうかと疑問になる。

相変わらずデマは多い。
最近ますます増えているし、どのような立場の大人であっても皆が騙されるという現象が起きている。

ファクトチェックを叫ぶだけで本当に良いのか、現代と古代の例をもとに考えてみた。

 

信じてもリスクの無かったデマ

先日(3月30日)にも
「東京ロックダウンの情報入手。4月1日から首都封鎖します。本日夕方から首相会見あります」
との情報が流れた。

参照

これは大企業の経営者や有識者などを含めて多くの人が騙されたらしい。
結果、夕方に首相会見は行われず官房長官が否定したことからデマだったことが分かったのだが。

私も信じた。この話を教えてくださった相手が日本の中枢に近い方だったために。
ただし「日本の法律上で強制は不可能」と知っていたので慌てることは無いと思っていた。車通勤だから仕事はするつもりでいたし。

私が聞いた話では「記者クラブからの情報」ということだったが、現実に新聞テレビ局の上層部に多くの知り合いを持つ人から聴けば信じるしかないではないか……? 本物の記者から転送された情報と思われたし。

つまりよく言われる、
“相手の立場によって信じさせるデマの手法!”
という典型例によって騙されたことになるが、それにしても疑う理由が思いつかなかった。

実際、信じようが信じまいが自分の行動は変わらないから「ふうん」と思っただけだった。
実害ゼロ。
私の場合、二週間程度の食糧なら備蓄があるから慌てて買い占めに走る必要も無かったのだが、もし備蓄が無かったら仕事帰りに少し食糧を買ったかもしれない。パニック的な行動を採らないようにだけ気を付けていればそれで良かったと思う。
後で思い返しても、都市封鎖などという近日中に起こる可能性が高いことを疑うリスクが見つからない。

それに真偽を確認する術も無い。
よく「デマに騙されないようにするためファクトチェックを!」と呼びかけられているが、いったいそれがどれほど可能か。
一般人の全員が、検索だけで全ての情報を手に入れられる? そんなわけないだろう。

例えば今回の件だと、 一般人の立場では夕方までに裏を取る手段が無い
一般人がこの情報の裏を取るために官邸へ駆け込んで質問したところで、回答してもらえるわけがない。

〔追記〕念のため書いておくと、以前の「新型コロナは27℃の湯で死ぬ」デマはファクトチェックの必要もなく少し考えれば嘘だと分かる話。ウイルスが人間の体温以下で“死ぬ”はずが無いということは、大人なら分かって然るべき話だろう。このような程度の低いデマは論外としてこの記事の話題から除外している。

ファクトチェックだけに頼り過ぎるのは危険

実は、たいていの情報は一般人にはファクトチェック不可能だろう。

もちろん少し検索して調べれば嘘だと分かる程度の低いデマもあるにはある。平時では。
だから裏を取るようにする癖は大事なのだが、全ての情報が検索すれば分かるような都合の良いものばかりではない。

たとえば戦争の際には敵国からファクトチェック不能のデマが大量に流される。
国家の中枢にいる人々でも、戦時に敵国から完全な情報が得られることはほとんど無いだろう。戦時で100%真正という裏の取れる情報があるほうがむしろおかしい。

このためファクトチェックだけに頼る癖は大変な危険をはらむ
ファクトチェック不能の情報に接したとき慌てふためき、どうしたら良いか分からず行動停止しているうちに危険な状況へ追いやられてしまうからだ。

戦時など緊急事態において判断にはスピードが求められる。
情報の裏を取ろうとして迷うことのほうが命取りともなる。
だから完全なファクトチェックよりも、「どう動くか」判断する訓練をすることのほうが大事。そのための行動原則を明確にしておく。

例)「数日後に都市封鎖」との情報に接したらどう行動すべきか

例として今回の件で考えてみる。

「数日後に東京が封鎖される」との情報が流れてきてファクトチェックの手段が無いとする。
この場合の東京都民は、どちらの判断を選択して誤っていた場合にリスクが低いか?を基準として考える。

  1.  首都封鎖ありと考えて行動する = しばらく外出を控えることが可能なように準備する。たとえばパニックを起こさないように注意しながら最低限の食糧などを調達する、または封鎖中に支援物資を得るための手段を確認する、等。
  2.  ハナから信じない。首都封鎖など永久に有り得ないと考える = 何の準備もせずに普段通り日常を過ごす。家に備蓄は一切置かない。相談窓口などのチェックもしない。

1の判断が誤っていた場合のリスク。

  •  備蓄用の在庫が増える。(笑… 次の機会に使えば良い。都市封鎖や災害が無かったとしても、普段の生活で少しずつ消化すれば良いから実質のリスクはゼロ)

2の判断が誤っていた場合のリスク。

  • 食糧や生活物資が無く、封鎖の当日から慌てる。
  • 急ぎ買い物へ出かけても、同じく慌てて詰めかけた人々によって商品は買い占められ小売店の棚は空。物資を手に入れることが難しくなる。
  •  毎日買い物に駆け回ることで感染してしまう。
  • 食事、日常生活に困窮することになる。
  • (実際は支援が入るためそんなことは無いだろうが)最悪の場合は飢えて死ぬことになる。

と考えれば分かる通り、圧倒で2のほうのリスクが高い。

よく言われる
「最悪を想定して行動すること」
とは、そのほうがリスクが低いからだ。

諺で言えば
“備えあれば憂いなし”
簡単な諺だから忘れてしまいがちだが、この短い文のなかに高度なリスク回避のための原則が織り込まれている。
昔からある諺は現代最高峰のリスク・マネージメントにも通じると言える。

補足 備え過ぎることでのリスク

この例ではもちろん、「冷静に行動すること」「パニックを起こさないこと」が前提となっている。

上のデマ・メールを流したのは悪意ある敵かもしれない。
切迫した誤情報を与えて日本人にパニックを起こさせ、買い占めや暴動を起こすことが目的だったと思われる。
だから無考えに翻弄されるだけではいけない。
だが、そもそも前もって「首都封鎖は有り得る」という前提で動いていればパニックを起こす余地もなかったはずだ。

常日頃から、自分にとってリスクの少ない行動を選択していれば急な災いにも慌てることが少なくなる。つまり極端な行動を採らずに済む。

「死して後に司馬懿(仲達)を走らす」? 司馬懿は軍事の常道を守っただけ

最後に軍事の例として三国時代の話から引用。

史書に
『死せる孔明生ける仲達を走らす』
という話が記録されているらしい。

ウィキペディアから引用。

三国時代、敵対していた蜀と魏の戦いの一つである五丈原の戦いの最中に、蜀の丞相である諸葛亮が病没した。これを察知した魏の軍師である司馬懿は、諸葛亮のいない蜀軍を強敵ではないとみなし、撤退する蜀軍に追い討ちをかけた。しかし、蜀軍が反撃の姿勢を見せたため、司馬懿は諸葛亮の病没は魏軍を釣り出すための計略であったと勘違いし、撤退した。

このことを後に、習鑿歯が『漢晋春秋』にて「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と称したことにより、この言葉が生まれた。

これは
「死してまで敵を脅かした孔明の偉大さ」(苦笑)
「死人に怯えて翻弄された仲達の愚かさ」
として表現されているらしいが、司馬懿に失礼と常々思っている。

司馬懿は軍事の常道を守っただけだろう。
つまり、軍事行動として公式上のリスク比較により、妥当な行動をしたまで。

“敵軍の指揮官が死亡した”
との情報を得ていたとしても100%正確ではないのなら、「生きている」可能性を残して警戒を怠らず行動するのが軍事では当然だ。
追撃のリスクは非常に高い。
敵にとって有利な場所へ誘い込まれて全滅する可能性もある。
この場合で言えば魏軍は蜀軍を追い払えば良かったのだから、深追いすることのメリットは低く、代わりに追撃するリスクは圧倒で高かった。
少し追ってはみたが危険を感じたならその瞬間に撤退するのが妥当だ。

もちろんこの例では、せっかくの敵軍撃破のチャンスを失ったというリスクがある。
しかしそれは名誉を失うという司馬懿・個人のリスク。
このエピソードからは司馬懿が個人の名誉を選ぶタイプの人ではなく、大陸的な合理主義者だったことが読み取れる。

もし立場が逆で、諸葛亮が追う側だったとしても同じ行動を採ったはずだ。
(と言うより諸葛亮ならそもそも追撃しないだろうが。相手の将が亡くなったという情報を得ていたなら、なおさら)

これが日本人なら「追撃できるチャンスにおいて、追撃しなかった。逃げた」という恥のほうを厭い、リスクが高くても深追いしてぱっと散る(玉砕する)ほうを選択するのではないか?  そのような行動原則は非合理極まる。

このように戦時では、司馬懿ほど上級のプロであっても100%真正と確証ある情報を得ることは難しい。
だからファクトチェックだけに頼らず、「真正」「誤情報」という可能性を並べリスク比較し、合理原則で行動を選択することが必要となる。

これから訪れる危機に立ち向かうために

私が思うに、現代人は情報だけに頼り過ぎだ。
そう言う私も現代人だが(笑)、長く現代生活を経験したからこそ身に染みて感じている。

我々は、どれほど遠い外国からでも瞬時に情報が入る環境で甘やかされ、「正しい情報が入って当たり前」と思わされてきたのではないか?

それで騙される人が増えたため、最近にわかにファクトチェックが叫ばれ出したのだが。
しかしこの記事で書いてきた通り、ファクトチェックに頼り過ぎることも情報の真偽だけに依存する甘えと言えるだろう。

どちらも情報に翻弄されることでは同じ。
自分の判断という基準が無ければ、思考停止・脊髄反射の穴に堕ちて情報の奴隷となる未来が待っている。

「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」
とは、単に情報をたくさん仕入れることだけを推奨している言葉なのではなくて(もちろん情報は最低限必要だが)、真意は「敵と自分を厳しい目で分析・比較し、現実を見据えろ」ということだ。
それは「自分で考えてリスクを見極めろ」という意味でもある

これからの世界を襲う危機に立ち向かうためには情報だけでは不十分だ。
情報の真偽が分からなくても自分の頭で考える能力こそ最も大切。
リスク計算(と人道遵守)の行動原則によって、常に一定の結果を保つ選択ができるよう判断力を鍛えることこそ必要と思う。