かつて蜀に存在した?孔明の生まれ変わり
かつて蜀に存在した「孔明の生まれ変わり」と呼ばれている人について雑感です。
本文常体。
〔2017/6/4筆。中~上級者向け雑談。画像は「大紀元」記事より引用〕
Contents
私腹を肥やした? あり得ない「孔明の生まれ変わり」
別館で
>「諸葛孔明の生まれ変わり」
>を名乗る人は、日本でも中国でも意外と少なかったらしい。(ハードルが高いうえに利益が無いので)
と書いたが、「生まれ変わり」と呼ばれた人は歴史上で一人だけ存在していたという。
唐代に生きた韋皋(いこう)という人。
彼は自分から「孔明の生まれ変わり」を名乗った人ではない。
蜀で有名となり崇められるようになったので、後世の人々が「孔明の生まれ変わり」ということにしたらしい。
インドの高僧が赤ん坊の頃に「この子は孔明の生まれ変わりだ」と霊視したということになっているが、それは作り話だと思う。いかにも中国らしい伝記だ。
韋皋がどうして褒め称えられることになったのかというと、
韋皋は蜀の人に重税を課して私腹を肥やし出世した。
出世した後、良策を出して蜀の地をよく治めた。
このため蜀の人々から「賢い」と尊敬され、「諸葛亮の生まれ変わり」と崇められた
とのことで理解に苦しむ。
「重税を課して私腹を肥やした」人物を「賢い」と褒め称えるとは。
私の感覚では全くついていけないな……。
私もどうやら過去世で中国に生きていたことがあったらしいのだが(笑)、今となっては中国の方々の価値観についていけない。※
そもそも、諸葛亮には「死後に財産調査したら生活上必要な財産しかなかった」(独裁政権に近い状態だったが私腹を肥やさなかった)という記録があったはず。
それなのに何故、蜀の人々は私腹を肥やした人を「孔明の生まれ変わり」と呼んだのか? よりによって蜀の方々が。
釈然としないな。
ちなみに
スピジャンルの専門家たちの話によると、輪廻転生で同じ地に転生するということはないそう。何故なら同じ地に生まれたのでは、魂が学習することができないから。
それはそうだろう。
※印「今となっては中国の方の価値観についていけない」について
ここは一括りに書いて申し訳なかった。中国共産党の悪行のせいで、私も漢代から見て後世の中国人に少し偏見を抱いていたかもしれない。
時代によりけり。人によりけり。唐代は立身出世がもてはやされたから、こういう欲深い人物が評価されたのだろう。私は絶対に話が合いそうにない人たちだが、たぶん当時の全員がそうだったのではないと思う。
現代中国は共産思想に侵されて人心荒廃し、賄賂と殺戮を好む役人ばかり。価値観が違うどころか人間ではない悪行ばかり目につくが、そんな国でさえ奇跡のように清貧な聖人もいる。
現代中国の恐ろしさ。「私腹を肥やした」という話がネットから消えた
それで、ここからは余談なのだけど、今検索したところ韋皋について上の「重税を課して私腹を肥やした」という話がネットからきれいに消えていて驚いた。
以下の中国記事(大紀元)の翻訳には背筋が寒くなる。
『諸葛孔明 唐代に転生し偉業を成す』
「重税を課して私腹を肥やした」という話が完全にカットされている。
恐ろしいな。
賄賂を厳しく取り締まっている国の施策に反するから、カットしたのか。
日本でも流行りの忖度だろうか。
なお、「韋皋」で検索すると中国語の記事で埋め尽くされており、日本人の書いた日本語の記事は遥か下に追いやられてしまっている。
見つかったのはこちらくらい。
諸葛孔明転生譚
引用
韋皋は蜀を治めること21年、初めは民に重税を課して栄達を図ったが、ひとたび己の権力が盤石になると今度は税を軽くした。そこで蜀の人々は彼の知謀に服し、彼の威光を畏れ、宋代に至るまで彼を土地神として祀り続けている──と資治通鑑の巻236に書いてある。韋皋が諸葛武侯の生まれ変わりだといわれて納得できるような、納得しかねるような、どうにも微妙なところである。
書いてくださって感謝。
不都合な歴史事実が中国政府によって消されていくのは悔しいので、この話を広めていただければ嬉しいです。
この戦闘のやり方は、さらにあり得ない
余談を追加。大紀元の記事から気になるところをもう少し引用してみる。
なお文中、「吐蕃」とは今で言うチベットにあった王国のこと。
中国の兵法は武勇だけではなく智略や策略も重んじる。韋皋も戦場だけが華である猛者ではなく、就任後すぐに周辺の脅威に対応する様々な方策を生み出し、効果を上げている。貞元15(799)年、大唐帝国の西部では韋皋の指揮する唐軍と南詔が連合して吐蕃と対峙する局面になっていた。大小様々な規模の軍事衝突が繰り返されたが、韋皋の働きにより失敗するのはいつも吐蕃であった。
断続的な戦いは貞元17(801)年についに一大決戦となった。韋皋は戦いを主導し、部隊を10班に分けて吐蕃の奥地に進撃させた。各部隊は敵に阻まれることなく前進し、戦いの序盤で吐蕃とアラブ・アッバース帝国の連合軍を打ち破った。
チベットとアラブの連合国を打ち破った?
それはそれは、ご立派ですね。
当時で言うところの「異民族の脅威」から蜀を守ったわけか。だとすれば蜀の人々から崇められるのも納得だ。
しかし孔明の生まれ変わりにしては、戦場で強過ぎませんか?(笑)
諸葛亮はこのように強行軍を推し進めるタイプではない。 実際の記録と「後世評」参照のこと。
この大規模な戦争は春から秋まで続き、10月までに韋皋は吐蕃軍16万を撃破し、城7つ、砦5つを落とした。その後さらに維州(現在の四川省東北部)に進撃し、吐蕃の救援軍を悉く破った。このことにより吐蕃のツェンポ(国王)は唐王朝の西北部を襲撃していた部隊を救援に回さざるを得ず、最終的に維州で決戦を行った。この決戦に於いて韋皋は敵をおびき寄せて包囲する作戦を用い、その過半数をせん滅し、敵の指揮官を捕虜とした。
韋皋は蜀に21年間滞在し、撃破した吐蕃軍は48万人に上り、敵の節度、指揮官、城主、そして官吏を1500人以上捕らえ、家畜25万頭以上を獲得し、武具630万を奪った。
>韋皋は敵をおびき寄せて包囲する作戦を用い、その過半数をせん滅し、敵の指揮官を捕虜とした。
>撃破した吐蕃軍は48万人に上り、敵の節度、指揮官、城主、そして官吏を1500人以上捕らえ、家畜25万頭以上を獲得し、武具630万を奪った。
この記事を書いた人は愚かなのだろうか。
諸葛亮は、このようなことをしない。
「孟獲を七度捕らえ、七度放した」という話の意味が理解できないのか?
その話は、異民族の人権を奪うな 他人の棲み処を蹂躙するな という意味だ。
「七度捕らえ七度放した」の真意を理解すべき。現代中国に騙されるな
ちなみに
「七度捕らえ七度放した」
という回数は大げさだが、相手の捕虜を取っても解放したのは諸葛亮の実話。
また「孟獲を捕らえて放した」とは政策の喩えであり、その政策を現実的に表現するなら、
「異民族の人権を奪うことなくリーダー同士の直接的な話し合いで収めた」
ということになる。
【諸葛亮の場合(史実)】
韋皋の行った強権的な弾圧は、諸葛亮とは完全に真逆の政策だと言える。
いくら蜀に利益をもたらしたからといって、異民族から権利を奪った人を「孔明の生まれ変わり」と呼ぶとは。唐代以降の蜀の人々よ、狂ったか?
腹立たしいのは古代とは何ら関係のない、現代の政治的な目的で上記事が書かれたと思われること。
上記事は明らかに現代のチベット・ウイグルへの中国政府による弾圧を示唆している。
それを「孔明の生まれ変わり」と呼ばれている人の行いで正当化。
あろうことか、非人道的な弾圧を奨励しようとしている。
……泣けてきた。許せないな。
参考
https://www.epochtimes.jp/は反共メディアであり、現中国政府への露骨な批判記事が多いのだが、このように政府寄りのプロバガンダとしか思えない記事もあって首を傾げる。
上記事は翻訳者の名があるだけで元記事不明。カモフラージュのために政府プロパガンダを翻訳して書いたのだろうか。謎。
参考 ⇒上サイト運営会社
(政府による虐殺の被害者である。中国政府と戦っている時点でいくらかマシな主義を持つと思われるが、安全性を保証できないのであまり深入りしないように。セミナー等へは行かないこと)
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