孔明ってどんな人だったの?に回答。諸葛亮の実像・性格分析【年表あり】

孔明ってどんな人だったの?に回答。諸葛亮の実像・性格分析【年表あり】

『三国志』フィクションで派手に描かれることの多い諸葛亮・孔明。

「奇策を弄する天才軍師」「冷たく厳しい法家」という描かれ方をされていますが、史実はその一般イメージと大きくかけ離れた人物です。

当記事では初心者さんから中級者さんのために、史書に記録されたエピソードを抜粋しながら諸葛亮の実像をご紹介していきます。

※ご注意※ この記事には『三国志』のネタバレがあります今、フィクションを読み始めたばかりの方はガッカリされるかもしれませんので、読後に気持ちが落ち着いてから(笑)お読みください。

フィクションご案内と基礎はこちら:

三国志って何? 基礎から学ぶ『三国志』おススメ3選

〔中級者以上向けの話〕昨今「孔明は冷酷なマキャベリストだった」という話がネットや書籍でばらまかれていますが、意図的にばらまかれている嘘です。ご注意を。詳細はこちら:

「孔明マキャベリスト」? マキャベリ推し世論の欺瞞と真実

 

基本的なこと。まず、「何の仕事をした人なのか」

諸葛亮(しょかつ・りょう)/孔明(こうめい)とは、一言で言えば古代に生きた戦略家であり政治家です。
約1800年前、現在の中国がある地域に生きていました。

西暦200年頃の古代中国は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国に分かれて戦争をしていました。
そのうちの蜀という国で防衛部門のトップを勤めたのが諸葛亮です。劉備(りゅう・び)が蜀の皇帝となってからは首相を勤めています。

フィクションの『三国志/三國演義』での彼は、奇想天外な作戦を立てて敵を翻弄する天才作戦家として描かれているようです。

『三國演義(さんごく-えんぎ。演義はフィクションという意味)』と呼ばれる書物は三国時代の1000年後に編まれたものですが、実は諸葛亮は生きている当時から「天才軍師」として騒がれ敵国に恐れられていたことはあまり認識されていません。『三国演義』のベースとなる民間伝承は、彼の死後だけではなく生きている間から語られていたものと思います。

ただ本人は(一見※)常識的に見える地味な人物でした。

現代性格分析によれば、内面は「繊細だが独自の道を歩む変わり者」だったようです

役職「軍師」についてはこちらで詳しく解説しています

諸葛亮は何の仕事をしていた? 現実の「軍師」はイメージとかなり違う!

中国人の名前についてはこちらご参照ください

三国志人物の名前、姓・名・字について。「諸葛亮孔明」は間違い

 

生い立ちと、大まかな生涯

生い立ち

西暦181年8月19日出生(光和4年7月23日生)※。現在の山東省臨沂市(徐州琅邪郡陽都県)出身です。

※推命術師の伝承だが正しいと筆者は考える。古代中国暦から現代グレゴリオ暦への変換はプロ占星術師が所有する高度計算ソフトによる。一日程度のずれが生じる可能性はあるが、個人的には信頼できる結果と思う

諸葛家は代々役人を勤めた名家。祖先は漢の役人だった豊(ほう)。
父は珪(けい)、兄は七歳上の瑾(きん)、弟は均(きん)。亮と均は同じ両親の子ですが、瑾は異母兄だと私は考えています。

名家の子として幼少期は何不自由なく育ちますが、幼い頃に父が死亡。
均とともに伯父の玄(げん)に引き取られ、12歳頃には伯父に連れられ彼の任地である南昌(長江を越えた南方)へ移住しました。
しかし養父となった玄も間もなく死亡。(玄は豫章太守に就くが、朱皓との戦に敗れるか民衆の反乱に遭って死亡した。詳細不明)

死の直前、戦争を予期した玄は荊州(けいしゅう)の劉表(りゅう・ひょう)へ家族を託したようです。このとき亮と均も荊州の中心地、襄陽(じょうよう)へ移住しています。

青年期、劉備と出会い人生が変わる

伯父の死後、襄陽の親族と距離を置き、隆中(りゅうちゅう)という里で自給自足の思索生活を始めます。

亮が二十代半ばの頃、近隣の樊城(はんじょう)に有名な武将である劉備が滞在していました。私の推測では親族からうるさく奨められ、劉備に目通りするため樊城へ行きますが、ここで劉備と言葉を交わし意気投合します。その後、三顧の礼を受けて出仕することになりました。

以上はフィクションと違う話です。一般的なフィクションおよび『正史』では、人材を探していた劉備が水鏡先生から「諸葛亮と龐統を推薦する」と紹介され、諸葛亮へ三顧礼をしたことになっています。

亮のほうが先に劉備へ会いに行ったという話はいわゆる「異説」なのですが、私はこの異説のほうが真実だと長年主張しています。〔異説『魏略』『九州春秋』〕

ただし水鏡先生こと司馬徽(しば・き)からの推挙が無かったとは言いません。おそらく当時の風習として出仕には識者からの推挙が必要だったので、劉備が後から諸葛亮の恩師である水鏡先生に依頼して正式な推挙を得たのかもしれません。あるいは城へ訪れた“諸葛”と名乗る若者がどこに住んでいるか不明だったため、司馬徽や徐庶らに居場所を聞いて回ったのかもしれません。その辺りの経緯は記録にないので推測するしかないと思います。

異説について詳しくはこちら:

三顧礼の真相。本当にあった? なかった? 考えてみる

 

出仕後、赤壁戦を経て大陸全土で有名になる

出仕後は劉備の補佐役・軍師として、劉備陣営の全般的な作戦立案を担当します。
フィクション小説のように出仕直後からいきなり活躍したわけではありません。ただし年を経るごとに、次第に重要な役回りを持つようになっていったと考えられます。

映画『レッドクリフ』で描かれた赤壁(せきへき)の戦いは出仕して間もない頃でした。このときはフィクションにある「風を呼ぶ」などの魔法を使って大活躍をしたわけではありませんが、呉へ使者として赴き曹操に抗戦するよう説得したのは史実です。「孔明など必要なかった、呉だけで抗戦できた」という嘘の話がばらまかれていますが、実際は諸葛亮がこのとき呉へ行かなければ三国時代はなく、曹操独裁の地獄※が実現していたと言えるでしょう。

※「曹操独裁の地獄」と言う理由…現代日本では「曹操は完璧な人徳者で正義の人」という話が流布されていますが、それは180度反転させられた捏造史です。曹操の実像はこちら:

曹操ってどんな人?〔後編〕 曹操による虐殺・拷問処刑リスト。全て史実です

この赤壁戦で呉・劉備同盟が勝利したことが時代の転換点となっています。象徴的には確かに“風向きを変えた”と言えるのでしょうか。

なお、諸葛亮の名が全土で有名となったのはこの赤壁戦後。「天才」と呼ばれるようになったのは、荊州三郡の立て直しをして大変に評価が上がった頃からでしょう。

劉備陣営の戦略を全て担当。劉備、王から皇帝へ

入蜀~国家樹立までの詳細は省きます。

劉備が王となり、後に蜀漢皇帝の座に就いたとき、亮は劉備から丞相の地位を賜っています。(「孔明は自分勝手に丞相の地位に就き、独裁者として悪逆の限りを尽くした」という話が流されていますが、それは悪意ある反転史です)

西暦223年に劉備が亡くなった後は、後継の劉禅に従い、丞相として国家実務の全権・全責任を負いました。
その後、自ら兵を率いて南方を平定。
漢王朝復興のため数度にわたり北伐を行いますが、果たすことなく。
西暦234年9月末、満53歳で陣中にて死亡。過労死と言われています。

死後、敵将であった司馬懿が陣を見回り、「けだし天下の奇才なり」と称したことが今に伝わります。
国内では死後に亮の財産を調べたところ、自分で申告していた通りの僅かな財産しか持っていなかったことが分かり、人々は衝撃を受けたそうです(独裁に近い権力を持ちながら私腹を肥やさなかった人は、めずらしいため)。ということは、「天下の奇才」と言うよりは「天下の正直者※」との評価のほうが正しい気がします。

吉川英治『諸葛菜』:「実に、愚ともいえるほど正直な道をまっすぐに歩いた人であった。」

〔以上、生い立ち~生涯 出典『蜀志・諸葛亮伝』本文他〕

諸葛亮の生涯 年表(簡略なもの)

昨今、嘘の年表がネット上でばらまかれているためご注意ください。

こちらは史書による年表です。現代的に分かりやすくするため西暦で表記し、年齢は満で示します。

181年8月 徐州琅邪郡陽都県に出生。

184年 世の中では黄巾乱勃発、乱世が始まる。正確な年は不明だが、この前後の時期に父親を亡くしている。

193年頃(12歳) 弟とともに伯父・玄に引き取られる。玄に連れられ、彼の任地である南昌へ移住。その後、荊州へ転居。

197年(16歳) 伯父の玄が死亡。隆中という里にて時給自足の生活を始める。

207年(26歳) 樊城に滞在していた劉備と会い、出仕。

208年(27歳) 呉へ赴き曹操に抗戦することを説得、同盟して赤壁戦に勝利。

209年(28歳) 劉備、荊州を得る。軍師中郎将に任じられ零陵・桂陽・長沙の三郡を治める。この時、三郡の経済を立て直して非常に評価が上がった。

211年(30歳) 劉備が蜀の劉璋に請われて、反乱鎮圧のために蜀へ赴く。疑いをかけられた劉備が蜀で包囲されたため、張飛・趙雲とともに救出に向かう。

214年(33歳) 蜀平定。劉備は益州牧となり、諸葛亮を股肱および軍師将軍として、全軍の政治戦略を委ねた。

219年(38歳) 劉備、漢中王となる。

221年(40歳) 劉備、蜀漢の皇帝となる。諸葛亮は劉備から丞相の地位を賜った。

223年(42歳) 劉備崩御(死去)。劉備の遺言に基づき、諸葛亮は武郷侯に封じられ幕府を開いた。蜀の政務全権を担う。

225年(44歳) 南方の乱を鎮めるために出兵、平定。

227年(46歳) 魏と対決するため北伐戦に臨む。『出師表』を上奏。

234年(53歳) 五丈原で司馬懿と対峙中に、死去。過労死と言われている。

〔出典『諸葛亮伝』『先主(劉備)伝』本文〕

諸葛亮の死因を現代医学で考える:

諸葛亮の死因を医学的に考えた記事へ、反論

歴史家による人物評

陳寿など近い時代の歴史家評によれば彼の性格は次の言葉でまとめられるようです。

・忠義、公平、厳粛、無私
・法の運用において私情をはさまず、「忠義をつくして人民の利益をはかった者には、意見の対立した者でも厚く賞し」、「法度にそむき職責に怠慢な者は、親族であってもかならず処罰」するなど徹底的に公正だった
・臨機応変が不得手
・独特の発想をした(新奇の工夫が得意だった)

陳寿評の原文訳はこちらにあるので、参考にしてください。

 

エピソードが表す真の性格

歴史家の評は素晴らしい。しかし人間の個性は、何気ないエピソードに強く表れるもの。
この項目では各種逸話に表れた性格を分析してみます。

若い頃のエピソード

学習法として、重箱の隅を突くような暗誦を嫌い、テキストは一度読んだきりで読み返すことはなかった。学友たちが細かい学習にこだわり議論しているのを眺め、「君たちはそれだけ懸命に勉強しているのだから、少なくとも県知事にはなれると思うよ」と言った。〔出典『魏略』〕

…これは本人が後に「県知事」を遥かに超える出世をしているため、「自分はお前らより優れている」との嫌味で言ったものと解釈されています。
私が思うに、ただ本心から「君たちは県知事になれる」と思ったのでそう言っただけでしょう。「必死で細部まで勉強している人たちは偉いな。自分には真似できない」という素直な感想です。
内心、出世にこだわり必死で勉強する人々(ガリ勉)を気の毒だと思う気持ちがあったのは否めないと思います。

★勉強法について:「テキストを一読するだけで読み返さない」の逸話から、孔明が勉強嫌いだった・勉強が苦手だったと思い込み喜ぶアンチが多いようです。残念ながらそうではありません。テキスト一読で広範囲を学ぶ人間はギフテッドと呼ばれ現実に存在します。

この記録文で決定的に、孔明は現代で言うところの「ギフテッド」だったと分かります。

【ギフテッドとは】

「テキストをざっと読むだけ」孔明の勉強法は適当? ギフテッドの学習法を解説

わりと細かかった晩年

『襄陽記』にいう。楊顒は字を子昭といい、楊儀の一族であった。蜀に入って、巴郡太守となり、丞相の主簿となった。亮があるときみずから金銭や穀物の出納簿を調べていると、楊顒はずかずかと入ってきて次のように諫言した、「行政には役割というものがあり、上下たがいに侵犯しあってはならないのです。どうか明公(※この場合は諸葛亮の事)のために、一家の仕組みをたとえに説明させて下さい。いまある人が奴隷に耕作を行なわせ、婢に炊事をまかなわせ、鶏に時を告げさせる役を、犬に盗人にむかって吠える役を、牛に重い荷物を背負わす役を、馬に遠方へ行く用をつとめさせますならば、各人の仕事には空白がなく、必要なことはすべて充足し、悠然と枕を高くして寝、飲み食いしていればすむのです。ところがある日突然、自分自身でそれらの仕事を何もかもやってのけ、二度と人まかせにしないで、自分の体力を労し、この煩雑な努めを行なおうとするならば、肉体は疲労し精神も困憊して、けっきょく何ひとつ仕上げられないでしょう。
(中略)
いま明公には政治を行うにあたり、手ずから出納簿をお調べになって、一日じゅう汗を流しておいでになられます。あまりにも労働過重ではないでしょうか。」亮は彼に陳謝した。のちに東曹属となって官吏の選考を司った。楊顒が死ぬと、諸葛亮は三日間涙を流し続けたのだった。

――『楊顒の逸話に見る諸葛亮の素直さとワーカホリック体質』

より再引用、感謝!(原文はちくま文庫『正史蜀書』。上記事が面白かったため引用リンクさせていただきました。名前の重複は一部カット)

「孔明は細かい」と有名になった原因のエピソード。
私の感覚として完全なる史実だと思います。
命がけの軍事で怠慢を許せないのは当然のことですが、武器管理の現場に総司令官が乗り込んで行くのは……まずかったのではないでしょうか。現場担当者はたまったものではなかっただろうと想像します。

でも、自分が悪いと思ったら素直に謝る

上にある通り、部下に叱られた事件の後、亮は「その通りだね。申し訳ない」と謝ったそうです。上記事から再び引用。

3について
そして素直に謝っちゃう諸葛亮。立場としては「うるせえな。ていうか、てめえらが役に立たねえから、こうして俺が調べてるんだろうが」と逆ギレする事も可能ですが、そこを「え、あ、ゴメン。てか、サーセン」と謝る所がまた凄い。まあ、様々な文献を読んでいていも、傲慢さを伺わせる記述はまず目にしませんので、もしかしたら想像以上に素直な人だったのかも知れないと思ってみたり。

笑……素直は素直なのかもしれない。

通常、権力者は下位の者に意見されたら怒るのかもしれません。
ネットの反応を見ると、「お偉いさんなのに謝ってんじゃねーよ」と亮を非難する声があるのですが、当時も周りから「おかしい」と思われたでしょう。

このエピソードからは彼が自分に意見したというだけのことで他人を断罪するタイプではなかったことが分かります。人や立場ではなく、意見の内容を客観的に判断したと言えます。
しかしおそらく自分がそうであるために、他人も全てを客観的・合理的に判断できると考えていたはずです。
上下も立場も気にせず誰に対しても平等に接し、「合理」優先で意見したために、生じた軋轢は多々あったと思われます。

友人でも処罰する

法的安定性を何より重視しました。「泣いて馬謖を斬る〔『諸葛亮伝』本文、『馬謖伝』本文〕」の故事はとても有名のようですが、その行いから「怖い」「冷血ロボット」のイメージがあります。
「冷血ロボット」の評価は正しいのかもしれません。
ただし実際は法文に対して杓子定規というわけではなく、本人が「処罰は罪に応じて適宜に」と述べている通りケースバイケース(法理論に基づき・過去の判例相当に照らし)で判断していたものと思われます。
なお現代の歴史家が、「諸葛亮は保身のためにライバルを次々と粛清していた」と言っていますが、捏造の誹謗中傷です。そのような記録は一切ありません

【重要】

亮の法治は儒教の「信義」に基づく誠実性を重視したもの。国家統治のために、権力は法に照らして誠実に執行されなければならないのです。法で縛られるのは民ではなく権力のほう。これは東洋思想なら法家より儒教に近く、西洋法学における「法的精神」に近い意識です。諸葛亮は秦代イメージでの「法家」ではありません

ただしもちろん法を軽視したわけではありません。諸葛亮は性善説でも性悪説でもなかったからです。こういうところが「バランス中道派」。法については後述します。

自分が悪いと思ったら自ら降格もする

上に同じ。
友人であろうと、自分自身であろうと、対応は同等。
立場ではなく「実際に犯された罪・責任」という中身で「適宜」の処罰を考えました。

でも実際は、泣いてばかりいる

やたらと「泣いた」エピソードが多い。多過ぎる。
(本人的にはこの「泣いた」エピソードの多さ、恥ずかしいでしょう……)
おそらく情に弱いくせに行いがロボットなので、なおさら辛かったのだと思います。

上の方、

>しかし、この御仁はよく泣くなあ。
>この時代の人間はちょっと何かあれば泣くのがデフォルトなのか・・・?

いや、デフォルトではないと思います……。笑

こんなカルタにまでなっている。痛い。
「意外とよく泣く名軍師」

 

意外とよく泣く名軍師

引用:『人生は格言だ! 横山光輝カルタ』より

 

反乱を起こした少数民族と対等に戦い、対等な話し合いをした

蜀の南方で少数民族の反乱が起きたときに自分で軍を率いて反乱を治めました。
そもそも少数民族の反乱に国家の首相が自分で出向く、ということはあり得ない非常識です。ただ、少数民族だろうと蜀だろうと同じ「集団の代表者」ですから、代表同士で話をしなければならないというのが彼の考えでした。

軍力は対等ではありませんので当然ながら蜀が圧勝し、敵方のリーダー孟獲は捕らえられます。しかし、諸葛亮は彼を捕虜とともに解放しています。
その後、孟獲は幾度も蜀軍に挑むがそのたびに捕らえられ、同じく解放されたことから心服したとされています。

このエピソードは「七度捕らえ七度放す(七縦七擒)」という諺になっています。
七回というのは少し大げさだと思いますが、捕らえた孟獲と捕虜を解放したのは間違いなく史実です。
孟獲が話し合いに応じたのは、反乱を起こした自分たちを人として扱って解放したことと、何より「首相が自分で話し合いに来た」ということが大きかったのではと思います。

追記:ちなみに最近、声高に叫ばれている「孔明は南征で大量に人を拉致して奴隷化した」という話は完全なる嘘ですから鵜呑みにしないようご注意を。どうやら中国共産党の奴隷政策を正当化するために必死で歴史捏造話をばらまいている者たちがいるようですね。史実はこの通り:

「孟獲を七度捕らえ、七度放した」とは捕虜の解放を意味します

まさか孟獲一人だけピンポイントに捕獲して放す、を繰り返すわけないでしょう。そんなことは不可能です。「戦闘のたびに捕虜全員を解放した」という話の喩えだということは、少し考えれば分かるはず。

“乱”を起こした小数民族たちを捕らえたが、何も咎めずに放すということは当時でも現代でもあり得ないことではないかと思います。諸葛亮の行動は大ニュースとして蜀を駆け巡り、賛成論・反対論の議論が噴出したはず。
このように特殊な事例だったからこそ、こうして記録されているわけです。

また孔明が遠征した雲南省のあたりで、彼は今とても好かれて称えられています。
雲南の人々へ恐怖を与え、人を無理やり拉致したのなら今日のように称賛されていることはあり得ないでしょう。

倉山満『嘘だらけの日中近代史』が本当に嘘だらけ より転載

なおこの話は馬謖が進言したことになっていますが、諸葛亮の長年の考えも同様のものであり、信念として一貫しています。
(私の考え… 馬謖の唯一の手柄であるかのように語られているこのエピソード、中国では反対に非常識で「悪」とされるため、史書では馬謖に責任を負わせたものではないか?)

また、諸葛亮は乱の平定が終わると南方から軍を引き揚げ、各地の豪族に治めさせるようにしました。その異例とも言える自由な統治を批判されたとき、こう答えています。

「この地に我々漢民族の軍隊を置けば兵糧が必要となるが、どこから調達するのだ? (だとすれば地元の人から奪うのか? それは駄目だ)…略… またこれまで抵抗してきた異民族は、我々漢民族が統治すれば信頼されていないと思って恐怖を抱くだろう。私は統治をゆるやかにすることによって、漢民族と異民族との関係をゆるやかに保つようにしたいのだ」

〔出典『漢晋春秋』〕

この回答は若干、言い訳っぽい。

おそらく直接統治で異民族を監視しないことに対して壮絶な批判が噴出したので、諸葛亮は皆が納得するように現実の利点を述べたのでしょう。実は、人道的な対応をしたかっただけ。

ただその「人道的な対応」は現実に費用も削減するなどお互いにウィンウィン(WinWin)でもあります。これが道理=合理です。

「心を攻めろ」※
とは懐柔策を意味するのではなく、道理をもって相手を人間として対等に扱う、という意味です。

※そもそも孔明は「心を攻めるべし」とは言っていません。それは馬謖が進言したとされる話で、捏造エピソードだと思います。

関連する話:

「孔明マキャベリスト」? マキャベリ推し世論の欺瞞と真実

 

かつて蜀に存在した?孔明の生まれ変わり

戦闘は手堅く、奇策を使わない。だが日常では創意工夫が好きな発明家

よく「諸葛亮は奇策を使わなかったから無能!!」という言説を見かけます。諸葛亮をかばうつもりは毛頭ありませんが、そもそも東洋の奇策信奉が誤り。このことは軍事学に照らせば常識です。

ともかく、諸葛亮が晩年の戦闘で「手堅く慎重な戦い方」をしたのは歴史的事実です。フィクションのイメージとは真逆で、戦闘において奇策を一切使いませんでした
これはおそらく兵士の命を奇策というギャンブルに使いたくない、という気持ちの表れと思います。一兵・一馬も無駄死にさせないという信念は、軍学的な合理主義とともに生来の人道主義から発しています。

もっと単純に言えば、「人殺しが嫌」だったのです。
洪水を鎮めるのに生贄を殺す風習を嫌ってやめさせたエピソードは、一部事実の可能性が高いでしょう。
本当は、戦闘で敵方の兵士を殺すことも嫌だった気がします。交戦時の攻撃力に欠けていたため司馬懿にも「諸葛亮は策の実行力に欠ける(あいつ、本当に戦う気あんのか?)」などと言われています。

このように戦闘では手堅く慎重だったので、亮に対して「頭の固い人物」というイメージを持つ人も多いのですが、相反するような「独自の発想を持ち新奇の工夫が得意だった」との記録もあります。様々な道具の発明や、政治システムの改善を好んで行ったようです。

つまり戦闘を離れた日常業務においては創意工夫が好きな発明家タイプだったと言えるでしょう。どうやら軍事と日常で思考のモードを切り替えていたようです。→MBTI分析参照(諸葛亮はINTP発明家ベースの戦略家で混合型、切り替え可能)

以上の話はこちら、蜀の史跡にて裏付けられます

空旅中国「孔明が挑んだ蜀の道」レビュー

主人の劉備とは深く信頼し合い、死後も忠義を尽くした

20/11/5追記。あまりにも当たり前過ぎるため書き忘れました……。

若かりし日に出仕した主人の劉備とは、「水魚の交わり(すいぎょ-の-まじわり)」と呼ばれた深い信頼関係を結びました。これは劉備が自分を魚にたとえて、「孔明は水のようなもの。無くてはならない存在だ」と呼んだことから生まれた故事だそうです。〔出典『諸葛亮伝』本文〕

諸葛亮も劉備を深く敬愛し、死後には彼の忘れ形見に従って忠義を尽くしました。この史実から、劉備と諸葛亮は1800年間「君臣の鑑」と呼ばれてきました。

ところが近年、似非歴史学者やアルバイトで書き込むネットライターが

「劉備と諸葛亮が信頼し合っていたなんて嘘! お互い憎しみ合い、いがみ合っていた! 諸葛亮は皇帝の位を簒奪しようとしていた!!」

という話をばらまいています。これは悪意ある嘘なので信じないようにしてください

諸葛亮には皇帝の位を簒奪したいという気持ちは微塵もありませんでしたし(これは行動から明白に分かると思います)、若い頃から劉備を敬愛していたことも史実です。

『演義』にはたくさんのフィクションがありますが、劉備と諸葛亮の信頼関係だけは史実。その史実には一片の疑義もありません

このことは、もし記録文を読めたなら文脈からサルでも理解できるはず。理解できないのはサル以下の知能の持主か、または何かの思想に洗脳されて“非人間化”した者だけでしょう。可哀そうに。

関連:

劉備と諸葛亮は、いがみ合っていた!? 「君可自取(君が政権を取れ)」遺言の真相

 

見た目には、そんなに凄い感じじゃない

 

※画像出典:「時空旅人」より。フィクションでよく描かれる図。個人的にこの絵は苦手です…。

これは載せるかどうか迷いましたが、「孔明ってどんな人?」という質問に最も正確に答えるエピソードだと思うので追加しておきます。

三国時代が過ぎて晋の時代。
東晋の武将、桓温という人が蜀に入ったとき、諸葛亮が生きていたときに下級役人を勤めていたという百歳を超える老人の噂を耳にしました。
桓温は興味を覚え、この老人を招いて尋ねています。
「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」
すると老人は首を傾げてしばらく考え込んだ後、こう答えました。
「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別で偉そうな方には見えませんでした。(質問者の左右に立つ家臣たちを見て、)あなたの横にいる方々のほうがよほど立派で偉い方のように見えます。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの方のような人はこの先、もう二度と表れないのではと思うのです」

このエピソードは、『説郛』に収める殷芸『小説』の中に収められているそうです。

西暦347年の出来事とありますが、亮は234年に死んでいますので、死後113年も過ぎています。老人が二十歳で役人を勤めていたとすれば133歳です。たまにとんでもなく長寿の人はいるからあり得なくはないものの、事実かどうか微妙な年齢です。もしかしたら年代やシチュエーションはフィクションなのかもしれません。

しかし内容はフィクションではないと思います。
実際に若い頃、亮の近くで勤めていたことのある誰かが現実に語った話でしょう。私が長年、記録と向き合って来たなかで、最も真実を感じて感動を覚えたエピソードです。

諸葛亮はおそらく、

>それほど特別で偉そうな方には見えませんでした。

と思えたでしょう。
どちらかというと気弱で地味なタイプです。だから見た目には偉そうでも凄そうでもなく、どこにでもいる下級役人のように見えたのではないでしょうか。
(占星術で見れば内面は変人なので、少し付き合えば「変わっている」と感じるかもしれませんが)

つまり現代で言うところの、「全くオーラのない」人です。
だからおそらく「スゴイ人」を期待して会う人は、ひどく落胆したのではないかと思います。気の毒に。

しかし

>諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの方のような人はこの先、もう二度と表れないのではと思うのです

というところ、本人が聞いたら大変嬉しく思うでしょう。

「凄い人だ」と褒めるのでもなく崇めるのでもなく。
対等に、ただ一個の人間として存在を認める。
これほど高度な人間の誠実が表れた評価は、他の歴史人物の記録でも見たことがないと思います。

心が温かくなるエピソードでした。
亮の魂はこの無名の老人の評価によって、救われたと思います。

参考書籍、素材

『正史三国志英傑伝3(蜀志)』徳間書店

『正史 三国志5(蜀志)』ちくま学芸文庫

*この記事のアイキャッチ画像「青空と羽」by acworksさん

現代の評価は? 一般ファンの評価を引用

現代、諸葛亮についてはネットや書籍で偏った評価が声高に叫ばれていますが、実はこちらが一般人の意見です。

日本人:

孔明について、日本人「三国志」一般ファンによる本当の評価

中国人:

諸葛亮は現代中国人(若い世代)にはどう思われているか?

【付録】現代分析をまとめてみました

一見すると地味だが、本性は独自の発想をする変わり者。よく泣く繊細者。等々… 現代性格分析では以下に当てはまる可能性が高そうです。

・INTP(発明家・研究者タイプ)

HSP(超高感度人間)

スキゾイド

他…『出師表』などの文をAIが分析した結果でも、「思考力が高く知的好奇心のあるタイプ(独自の道を歩む)」だったようです。

後書き。何故、この記事を書いたか

私としては最近この人物の話ばかりしていて、恥ずかしい。でも頑張って書いているのは、読者様サービスのためと、政治的な赤い思惑による人物評の歪みを知ったからです。

政治が、純粋なる人々の精神文化を汚すことを許してはなりません。そう思って亮の真実を書くことを自分に強いている次第です。

蜀ファンの皆様、どうか正当な話のネット書き込み・拡散をお願い致します。

こちらもお読みください:

三国志ジャンルの捏造記事について +蜀ファンへメッセージ【拡散希望】

 

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