三顧礼の真相。本当にあった? なかった? 考えてみる

三顧礼の真相。本当にあった? なかった? 考えてみる

〔2024/5/11追記〕

この記事はかつて限定公開での投稿で書いたものですが、客観的な部分のみ公開しておきます。

かつて異説をバカにした歴史学者たちが、昔から自分が唱えてきたような顔をし始めた

正統な記録書とされる『蜀志/諸葛亮伝』には、劉備が諸葛亮の庵を訪れた時が初対面であった、と記録されています。
しかし何度も書くように、陳寿の記録書は政策的な意図で事実を書かなかった※(書かないことで捻じ曲げようとした)箇所が多いので、真相はどうだったのか裴松之注を参照しながら読む必要があります。

※陳寿の『正史』に見える政策的意図とは

追記しておきます。長年陳寿の『正史』を読んできて分かるのは、彼は「事実として無かったことは書かない主義(★例外あり)」だったことです。つまり現代の左翼メディアのように事実と正反対の話を創作したりはしなかったということ。その代わりに「事実を書かないこと」はあったようです。

例:曹操の虐殺について陳寿は「曹操軍が通過した地域ではどこでも大量の住民が虐殺された」などと漠然とした話は記述していますが、具体的にどこで何人が虐殺されたか書かなかった。=これは当時の晋王朝の前身とされる魏について都合の悪い話が書けなかったから。魏にとって不利な話は具体的に記さない、これが陳寿の政策的意図です。

蜀に関して言えば一般で知られている有名な事実は記すけれども、詳細は記さないようにしていた傾向が見えます。史書のなかで蜀を特別扱いすることは当時できなかったからです。しかし蜀人物は存命の時からすでに一般で人気だったため、民から反感を買わないよう周知の事実だけは記すようにしたのでしょう。

このような政策的意図で『正史』から欠けた情報を補うのが、裴松之注に記された異説などです。

★「事実として無かったことを書かない主義」の例外と思われる件は、「若い頃の諸葛亮が梁父吟をうたっていた」という記述です。これは政治的理由から挿入した記述と考えられますが、陳寿の主義に反した希少な例外と言えるでしょう。晋王朝からの圧力があったのかもしれません。

諸葛亮が劉備と初めて会った日のことについては異説があります。
それは劉備が先ではなく、諸葛亮のほうが先に劉備のもとへ赴いて対面したという話です。
どうやら近年ではこちらの異説を有力と考える歴史学者が増えてきたようです。

加来耕三氏などは近年、異説のほうを「真実である」と断定的に書くことにしているらしく、私は驚きました。
読者をバカだと思っているからなのかどうか知りませんが、一切論拠を説明せずに自分の空想を断定的に書くのは良くありませんね。異説が真実だと確信している私ですら、一般の記事で断定的に書いたことはないというのに。

二十年前は「異説」はバカバカしい・あり得ないなどと言われてほとんど無視されていて、この件について触れる解説書も少なかったのです。
本国の中国では、「異説」は歴史学会で否定され、「異説」を載せた本が禁書扱いとなったほどです。

それなのにほんの二十年で、ここまで状況が変化したことには驚きです。

いったいこの二十年で何が起きたのか?

もし、密かな私の宣伝がネット住民を通じて間接的に浸透してきたのなら、それほど喜ばしいことはないのですが。

まあ私は完全無名で無力ですので、それはないかな。笑
偶然でしょうね。

偶然にしても、真実が伝達されるのは嬉しいことです。

三顧礼異説の内容

参考のため裴松之注「異説」をここに引用しておきます。
(一部、人物名の姓はカットします)

 劉備が樊城に駐屯していたのは、曹操がちょうど河北の平定を終えたときのことである。諸葛亮は曹操のつぎの目標が荊州であるのに、荊州牧の劉表は優柔不断で軍事面の知識もないことを知っていたので、襄陽の北にあった樊城へおもむき劉備に見参した。ところが、劉備は諸葛亮を知らなかったうえ、かれが若いのを見て、「食客の希望者だろう」くらいに思って、とくに言葉をかけることもしなかった。やがて時間がきてみなが引き取ったのに、亮はひとり黙然と居残っていた。劉備は劉備で、「この若造いったい何者だ」と思いながらも、声もかけずにいた。
備は生来、旗の飾りにする牛毛を編むのが好きだった。たまたまある人からボウ牛(ヤク)の尾を贈られたので、なぐさみに編んでいた。亮はそれを見ると、進み出ていった。
「名将の聞こえ高い将軍のこと、当然、遠大なお志をお持ちと思いましたのに、なすこともなく旗飾りなどを編んでおられるとは、これは驚きました」
備はこれはただ者ではないと悟り、ぱっとそれを投げ捨てていった。
「なんと申す。わしは手なぐさみにやっていたまでじゃぞ」
すると亮がいった。
「将軍には、劉鎮南(劉表)と曹操を比べて、いずれが優るとお考えですか」
「とうてい曹操の敵ではないわ」
「では、将軍ご自身を曹操と比べてみられていかがですか」
「やはり、向こうが上だ」
「いまや曹操にかなう者はいないというのに、将軍の軍勢はわずか数千。これで曹操の軍勢に対抗しようというのは、あまりにも無謀というものではありませんか」
「わしもそれを憂えているのだ。いったいどうしたものだろう」
このように備が虚心坦懐に手のうちをさらけだしてみせたので、亮はいった。
「現在、荊州の人口は決して少ないわけではないのです。戸籍に載っている者が少ないのです。それで、その不完全な戸籍簿の人数にしたがって兵を徴発するので、民衆は喜ばないのです。劉鎮南に進言され、州内に命令を下し、まだ戸籍に載っていない者たちをすべて登記させ、そのうえで兵を徴発すれば軍勢を増強できるでしょう」
劉備はこの計に従って軍勢を増強することができた。このことがあって以来、備は亮が雄大な戦略構想を持っていることを知り、最高の賓客としてもてなすことにしたのである。

「中国の思想」刊行委員会 翻訳

この話は『魏略』および『九州春秋』の二つの文献に残されているようです。

現実にあったことの真相、考えられること

さて上で私は「異説は真実と確信している」と書きましたが、確信している理由については公開でお話しすることができません。

強いて客観的な理由として述べると、
「劉備が手慰みに持っていた旗飾りについて、諸葛亮は問いかけた」
などと作り話にしては不自然と言えるほどディテールが具体的なことでしょう。
それに若造の諸葛亮が自分から城へ赴いたという経緯はリアリティがある話です。
伝説の思い込みが強く、諸葛亮を高飛車な性格だと思い込んでいるフィクション作家にはとうてい思いつくことなど無理でしょう。

ただ、かつて歴史学会などでこの説が否定されたのは諸葛亮自身が『出師表』にて

ところが先帝は、私を卑しい者として見下すことがありませんでした。
そして、ご自身がこの無名な貧乏人のあばら屋を三度も訪ねてくださり、……

と書いているからです。

では、三顧礼はあったのか?

答えはYESです。

三顧礼は諸葛亮が書いている通り現実にあったことだと考えられます。

史実としての経緯はこう。

1.諸葛亮が樊城の劉備を訪ねた
2.話が合い、意気投合
3.劉備が隆中へ出向いて迎える

3については推測ですが、劉備は「下位の一兵卒と寝食を共にした」という記録が残る人なので必ずそうしたでしょう。
そのため諸葛亮は驚き感激し、生涯従ったのです。

 

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