諸葛亮の後世評価、引用
この記事は資料としての後世評価引用です。
三国志初心者の方で、「孔明ってどんな人?」ということを簡単に知りたい方はこちらの記事がおススメです。
『諸葛亮伝』陳寿評 全文訳
諸葛亮は相国(大臣)になると、人民に安居楽業を保証し(国民に安心の暮らしを保証し)、礼法や規律を明確にし(規則などをはっきりと示した)、官吏の権限・職責を規定し、主君の裁断に従って、誠心を披瀝し、公正な政治を行った。
忠義をつくして人民の利益をはかった者には、意見の対立した者でも厚く賞し、法度(法律規則)にそむき職責に怠慢な者は、親族であってもかならず処罰した。進んで罪を認め反省した者は重罪であってもかならず許し、言葉巧みに言い逃れようとする者は軽罪でもかならず処刑した。善行には些細なことでも顕彰しないことはなく、悪行には微小なことでも処分しないことはなかった。各種の事務に精通し、日常業務の基本を掌握し、言行一致を要求して、虚偽の言行をなす者とは同席しようとしなかった。
かくて、蜀の国内では、みながかれを敬愛し、厳格な政治が行われたにもかかわらずこれを恨む者がなかったのは、かれの配慮が公平で、賞罰が厳正だったからである。かれこそはまことに政治の本質を理解していた人材で、管仲・蕭何に匹敵する者といえよう。
しかし、連年、蜀の軍勢を動員しながら、ついに目的を達成することができなかったのは、おそらく臨機応変の戦略戦術に長じていなかったからではあるまいか。
『正史蜀書/三国志英傑伝3』徳間書店「中国の思想」同行委員会訳より、()内は筆者が補足
後世の評価、引用
こちらはウィキペディアからの引用です。陳寿とその他の人々の評価を含みます。また誰かが書き換えると思いますので今のうち引用しておきます。
引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE 2018/11/09アーカイブ版より
陳寿の評
『三国志』の撰者の陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。
また、『三国志』に収録されている「諸葛氏集目録」で陳寿らは「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなく、敵のほうが兵数が多く王子城父、韓信のような名将もいなかった。魏に対する北伐が成功しなかったのは天命なのだ」と評している[8]。
諸葛亮が奇策を用いなかったことについては、「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。…孔明に功を挙げられないのは、そもそも予想がつくことであり、仲達を必要とすることもない」(王志堅『読史商語』)など批判する意見もある一方で、
「蜀がもともと弱国で危ういことを知っていたから、慎重堅持して国を鎮めたのだ」(傅玄『傅子』)
「主君が暗愚で敵国が強大であるので(魏を一気に滅ぼす)計画を変更して蜀を保持しようとしたまでのことだ」(王夫之『読通鑑論』)
「諸葛公はリスクが大きい計略だから用いなかったのではない。大義を標榜した出兵だったから策謀や詭計を用いなかったのだ」(洪邁『容斎随筆』)など様々に擁護する意見もあり、にぎやかに議論が行われた。
陳寿の評について「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝にある。(詳しくは陳寿への非難の項を参照)[9]。
その他の評価
前述のほか、後世に至るまでの評を挙げる。司馬懿:諸葛亮の没後陣形跡を眺めながら「天下の奇才なり」と永らく戦った敵でありながら、その軍才を敬意を込めて賞賛している。また諸葛亮に手紙を出し「黄権(魏に降伏した蜀の将軍)は快男児です。彼はいつも、あなたのことを賛美し話題にしています」と述べた。
張儼: 「いにしえの管仲、 晏嬰といえども、どうして彼以上でありえようか」(黙記)
裴松之:「諸葛亮が魏に仕えて能力を発揮していたら、陳羣や司馬懿でも対抗できなかっただろう」
劉義慶:諸葛誕が仕官した時「蜀漢は其の竜(諸葛亮)を得、呉は其の虎(諸葛瑾)を得、魏は其の狗(諸葛誕)を得たり」といわれた。また東晋の王徽之(王羲之の五男)は、北府(徐州刺史)を拝命した郗愔の家に来て、「応変将略は、その長ずるところにあらず」と何度も言った。郗愔の次男は怒ったが、長男は「これは陳寿の諸葛亮評だ。何の文句があろうか」と言った。(世説新語)
杜甫:「伊尹や呂尚に伯仲し、天下がその指揮に服したならば蕭何や曹参も問題にならなかっただろう」(「詠懐古跡」)
蘇軾:「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」(『東坡全集』前集巻43「諸葛亮論」)
朱熹:「孟子以降の人物としては張良と諸葛亮がいるのみである」(『朱子語類』巻163・歴代3)
裴注所引『袁子』:「諸葛亮は基本を守る人間で、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面(状況の変化に対応する事)で無理をしなかったのである。不得手な点を知って無理をしない事こそ賢者の偉大なところである」[10]
蜀の費禕は姜維に「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。丞相でさえ中原を平定できなかったのだ。我らなどでは問題外だ。功業樹立は能力のある者の到来を待とう」と語り、諸葛亮を賞賛している。
李厳:諸葛亮に手紙を出し、九錫を受け王となるよう勧めたことがあった。それは劉禅から帝位を奪うことに繋がる行為である。そのため「魏を滅亡させ、あなた方と一緒に昇進するならば、九どころか十の恩典でも受ける所存です」と、李厳の申し出を拒絶した。(『諸葛亮集』)。
西晋の司馬炎は「(諸葛亮を)自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と宰相としての諸葛亮を賞賛している(諸葛亮伝・裴注所引『漢晋春秋』)。
崔浩:「曹氏と天下を争う事あたわず、荊州を委棄し退きて巴蜀に入り、劉璋を誘奪し、孫氏を偽連し、守るも崎嶇の地に窮し、辺夷の間に僭号す。此の策の下なるは、趙他を以て偶と為すべきにして、以て管蕭の亜匹と為すは、また過ぎたるにあらずや」と極めて辛口の評を述べている(『魏書』毛脩之伝)。
劉璋が支配していた益州を奪ったことに関しては、蘇軾は「劉璋を騙し討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能・兵力・領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。(劉璋を騙し討ちにして)これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い」と述べている(前掲「諸葛亮論」)。これに対し、明代の学者・王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統・法正である事、また劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している(『読書後』巻2「書蘇子瞻諸葛亮論後」)。
巴蜀では死後も永くその統治を慕い、懐かしんだ。死後、廟の建立を求める声が各地から挙がり、特別に議して沔陽に立てられた(『襄陽記』)。
東晋の武将桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていた時に小吏を務めていたという百歳を超える老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」と問うた所、「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという(『説郛』に収める殷芸『小説』)。なお、桓温は簡文帝臨終の際に禅譲を考えていたことから、簡文帝に「諸葛亮や王導のように皇太子(孝武帝)を補佐してほしい」と遺詔された。
唐代の文人・孫樵は「武侯(孔明)が死んでほとんど500年になろうとしているが、今に至るまで梁漢(蜀)の民はその事績を歌にうたい、廟に祭る者あるが如し。その民に愛されることかくの如く久しい」と『刻武侯碑陰』に書く。
東晋の習鑿歯は、かつて劉備が「馬謖に重事を任せてはならない」といましめていながら、諸葛亮が北伐に際し馬謖を将に起用して大敗し、彼を処刑してしまったことを踏まえて、「人を見る目という点で大失敗を犯し、聡明な君主のいましめに背くことになり、人を裁く上で的を外し、有益な人物を殺すこととなった」とし、「中国を併呑できなかったのも当然のことではなかろうか」と厳しく断じている。しかしその一方李厳や廖立を廃しながらも、その二人に恨みがましい言葉どころかその死を嘆かせた事をあげ、「諸葛亮の刑罰の行使がよく的を射ていたといってよく、秦・漢以来絶えて無かったことである」と法の厳正さを賞賛している。
李暠:「諸葛亮の訓励・応璩の奏諌を覧るに、其の終始を尋ぬれば周孔の教尽く中に在り」(『晋書』涼武昭王伝)
中国文学翻訳家の土屋文子が、『歴史読本 1993年4月号』(新人物往来社)の「現代中国の諸葛孔明批判」[11]で発表したところによれば「文化大革命が終了した後の1980年代前半は、中国の史学研究がいわゆる儒教闘争史の頚木から解放され、著しく活性化した時期であった」「諸葛亮個人に関するものに限ってみても、1980年から1985年までの5年間に全国でおよそ150篇にものぼる論文が発表されているが、これは文革以前の17年間における累計の約3倍に相当する数字である」。このことから、これを「『諸葛亮研究史における繁栄と収穫の時期』であったといってよいだろう」とし、「80年代に入って発表された論文の中には、これまでは諸葛亮の功績として評価されてきた事項に、新たな疑問と批判を投げかける、いわば諸葛亮否定論といった風潮が生じている」と指摘し、こうした論文に対して「こうした批判的風潮は、何もいたずらに諸葛亮をおとしめるために起こったものではなく、論者たちはこのような過激な手法を手がかりとして、諸葛亮に対する従来の一方的な賛美から脱却し、新たなアプローチを試みているのである」との見解を提示している。平田篤胤 「孔子以後は孔明がいるだけだ」
著作等
『三国志』諸葛亮伝では、「諸葛亮は創造力があった」「諸葛亮の言葉・布告・書簡・上奏文には見るべきものが多くあった」と諸葛亮の創造性と文才を高く評価している。
諸葛亮の著作としてはもちろん「出師表」が最も有名である。漢詩などはまったく残しておらず、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして「出師表」の他には、李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが、現存していない。
「後出師表」は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記した上で引用している。この文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲がすでに死んでいるという記述があるなどの疑念により、後世の偽作という見解が多い。
また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して「八陣の図」(「八陣図」「軍勝図」「八卦の陣」とも)を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『李衛公問対』では、唐の名将李靖の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。『三国志演義』では、諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。
諸葛亮は発明家でもあり、以下のようなものが諸葛亮の発明であるとされる[要出典]。『三国志』諸葛亮伝にも、諸葛亮は連発式の弩(元戎)・木牛・流馬を開発したと記されている。
晋時代に普及した筒袖鎧
連発式の弩を工夫した元戎(『魏氏春秋』によれば、この弩は十本の矢を同時に発射することができた)
一説に一輪車(猫車)の起源とされる木牛
一説に四輪車と言われる流馬
駐留時栽培させた諸葛菜(蕪)
織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦
字を知らない民の教育に使用した紙芝居
おもちゃの孔明鎖
孔明灯(現在雲南地方にて諸葛亮発明と伝わる)なお、諸葛亮が南蛮征伐の際、人頭を祀るという現地の風習を廃止させるため、人頭の代替食品として、小麦の練り物の内部に肉団子を包み込んで人頭に見立てたものが「饅頭」であるという話があるが、これは宋代の類書『事物紀原』に「小説に曰く」と前置きして引かれている話である。
脚注
8 ^ 「諸葛氏集目録」によれば、諸葛亮は道具の改良や技術の発展に大貢献した。
9 ^ 『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引く孫盛の『異同記』によれば、蜀(益州)の長老が「陳寿が諸葛亮の子の諸葛瞻の部下だったとき、諸葛瞻から恥辱を受けた。陳寿はそのことを根に持って、諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかったと『三国志』に書いた」と語ったという。
10 ^ また「諸葛亮の行軍は安定・平静で行動しやすく、堅固・慎重で進退自在であり、法令は明快にして信賞必罰を旨としていたため、士卒は勇んで戦った。諸葛亮が行軍中に作った軍営・井戸・かまど・厠・砦などは立派で規則に適い、撤退する時はそれらをすっかり取り去っていった。また諸葛亮は役所・宿場・橋・道路の修築を好んだが、(袁子によれば)諸葛亮は国家の根幹を確立することで末端も治まるとの方針に基づいてこれらの工事を奨励した。諸葛亮の統治により、田畑は開墾され、武器の性能は良くなった」とも評している。
11 ^ 『歴史読本 特集 三国志 七人の軍師』 1993年4月号 P152-157、新人物往来社
12 ^ 『演義』の版本として現在最も通行している毛宗崗本では、この部分は削除されている。
13 ^ 諸葛八卦村 -浙江省観光局公式ページより。一部修正
※この記事の引用は、以下の記事の資料として行ったものです。つまり日本国著作権法第32条引用要件「主従」の主に当たる文は、以下記事となります。
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