諸葛亮の軍事能力ってどうなの? 知恵袋民たちの意見ログ(保存版)

諸葛亮の軍事能力ってどうなの? 知恵袋民たちの意見ログ(保存版)

諸葛亮(孔明)の軍事能力については、かつてフィクションの影響で過大に評価されてきた歴史があります。

逆に現代では、「諸葛亮は軍事について何も知らない完全素人だった」などとあり得ない話で過剰な貶めが行われています。

どちらも極端な評価であり、史実からは遠い話だと言えます。

ここではそういった極端な思い込みとは一線を画す、客観的かつ正確と思われる上級マニアさんたちの意見を引用しました。玉石混交の知恵袋からですが、ここでピックアップしたのは歴史学者よりも凄い意見ばかりです。参考にしてください。私も勉強させていただいております。

〔いずれ消えてしまう“知恵袋”サービス書き込み保存のため、長めに引用することご理解ください〕

前置き:「戦争」が何であるかわかっていない人たち

私の意見はあまり細かく書かない予定ですが、これだけは本当に危険なことだから先に叫ばせてください。

(ここは前置きで現代の話です。本題の三国志雑談は次項目から)

諸葛亮に関する日本人の意見を眺めていると、ほとんどの三国志マニアが
「諸葛亮は晩年しか兵を率いていないので軍事シロウトだった」
「作戦らしい作戦を立てたことが一度もなかった」
と考えているようです。
日本人は、「戦場だけが戦争」だと頑なに信じ込んでいるのですね。

このような「戦争」定義の誤り、軍事に関する無知ぶりは国際的に見て非常な恥だし、インターネットや書籍で披露するのも大変危険です。
私が外国人なら、ここまで低レベルな軍事概念しか持たない日本を攻めるのは赤子の手をひねるにも等しい簡単なことだと考えます。
今のところ米国が日本を保護しているかのように見えるため、運良く静観されているだけのこと。これは狼の群れの中にいて、焚火をたいて狼を追い払っている状況です。しかし、狼たちは暗闇のなかで遠巻きにこちらを見つめています。特にこういった軍事に関する日本人の発言を収集、分析しています。

かつての日本人は今と同じく「戦場だけが戦争」なのだと思っていて、兵站さえ整えることもないまま狭い範囲での作戦(奇策・戦術)に固執したので、太平洋戦争での大敗北と虐殺を受けたのです。
今の日本人を眺めていると、あれほどの痛手を受けたのに全く反省がないことがよく分かり、どうやら将来も同じ轍を踏むなと予想されます。

どうか(他国等と敵対している状況下において)「戦争」とは平時を含めた政治・外交など組織行為の全てを含む。戦場における戦闘は「戦争」の僅かな一部に過ぎない。
という基礎だけでも理解していただきたいです。

こちらの記事もご参照ください:

超限戦は『孫子』の劣化版、生兵法【古典で読み解く現代中国】

【追記】 前にも書いた通り、三国時代の軍師は日本人がイメージする「戦場でお殿様の耳に作戦を囁く参謀」ではありません。現代の「防衛府」のイメージに近く、政治外交を含めた国家(他集団)のトータルな戦略を立てる専門部署です。
ですから、軍師府の長官だった諸葛亮は内勤ではあっても劉備陣営戦略の全てを担っていました(特に入蜀後は)。政治外交も「戦争」のうちに含まれますし、現場(戦場)の対応を除いてあらゆる戦略は諸葛亮が長を勤めた軍師府を通されたと言えます。そんなことは役職上、当たり前のことであったため、特に諸葛亮の立てた戦略としては記録に残されなかったはずです。したがって諸葛亮が戦場に出ていないから「軍事素人」と考えるのは誤りです。

参考:

諸葛亮は何の仕事をしていた? 現実の「軍師」はイメージとかなり違う!

知恵質問「諸葛亮は軍事の素人とのことですが?」と、お手本回答

本題。
具体的に、知恵民の意見を引用していきましょう。

全ての意見を引用しているときりがないので一ページだけご紹介。
ここは回答者たちはまともですが、質問者の疑問が他の板における意見を端的に表しています。

知恵質問

chi********さん 2018/3/1821:12:31

諸葛亮についてですが、諸葛亮はあくまで政治家で、戦争は素人とのことですが、実際自分達の10倍近くの国力の国相手に北伐を行なっていて、結構いい勝負をしています。実際はかなりの名将だったのではないでしょうか?

最もオーソドックスな識者の回答

これに対する常識的な回答。

ste********さん 2018/3/1900:36:06

諸葛亮の場合、歴史小説の『三国志演義』によってつくられたイメージが
強烈なため、史実の諸葛亮との間にかなりのギャップが生じています。
小説のなかでの諸葛亮は、神算鬼謀の軍師であり、魔法をもあやつる
人智を超越したキャラクターになっています。
(なのに物語上では勝者にはなれないわけです)

物語と史実とのギャップは、大河ドラマなどでもよくみられる現象です。

しかし、歴史書の(つまり正史)『三国志』に記録された諸葛亮は、
物語のよう戦場で魔法を使ったりしません。
歴史書からうかがえる軍司令官としての諸葛亮は、
戦略・戦術ともに手堅い・堅実といった感じになります。

>諸葛亮はあくまで政治家で、戦争は素人

歴史書の『三国志』には、著者である陳寿の感想が
各人物の列伝の最後に付け加えられています。
陳寿は、政治家・行政官としての諸葛亮はべた誉めしていますが、
最後に将軍としての諸葛亮に一言物申しています。

原文だとこうです。

【連年動衆、未能成功、蓋應變將略、非其所長歟】

連年、軍を動かして、成功しなかったのは、
臨機応変の将略(軍略)が得意分野では無かったからではなかろうか、
というような意味です。

この話をもとに、諸葛亮は将軍としての才能が無いというふうに
誤解してしまう人が多いようです。
陳寿の評価は、「應變(応変)」が苦手だったということで、
将軍としての才能を全否定しているわけでは無いということです。
戦場における臨機応変の才能とは、
『孫子(の兵法)』の言うところの、「兵は詭道なり」ということでしょう。

将軍としての諸葛亮は、リスクの少ない着実な戦略を実行するタイプ
だったように思えます。
堅実ですが、相手からは意外性が無く、行動の読みやすい将軍だったようにも
思えます。
歴史上の名将と呼ばれる人は、たいていハイリスク・ハイリターンな
戦略・戦術を躊躇なく実行しています。

諸葛亮の戦略は、ほとんどがローリスク・ローリターンなものでした。
ですから、大勝しないが、負けもしないという手堅いものでした。

個人的には、諸葛亮を名将とは考えませんが、
かといって無能な将軍とも思いません。

>諸葛亮はあくまで政治家で、戦争は素人

諸葛亮は文官だから、戦争は苦手と思っている人もよく見かけます。
しかし、これも実は違います。
中国では、文官と武官は区別されるものではありません。
たいていの官僚はどちらの官職も経験するものでした。
諸葛亮のような文人(文官でなく)タイプの人物が
将軍職に就くということもよくあることでした。

例えば、官僚になり立てのころの曹操も、
文官職と武官職を交互に経験していました。

諸葛亮の得意分野は軍事面より、法家思想を武器とした
政治家だったのは間違いないでしょう。

>(陳寿)の話をもとに、諸葛亮は将軍としての才能が無いというふうに誤解してしまう人が多いようです。

そうでしょうね。

陳寿の評価は歴史家として妥当だが、素人さんたちの解釈は誤り

私は陳寿の「臨機応変が苦手」は、政策に対するやんわりとした批判だと考えていましたが誤解でしょうか?
戦術についても諸葛亮は確かに現場での謀略が苦手と見える面もあります。(と言うより、実際に苦手だったと思います)
いずれにしても陳寿評は歴史家としては妥当です。

ところが本物の「素人」さんたち、戦争にも歴史にも浅い考えしか持たない人たちは陳寿の言葉面だけを鵜呑みにし、
「諸葛亮は軍事素人だった!」
と言って喜んでいます。これは恥ずかしく、外国人に日本の弱さをさらす愚かなことです。

なお、上の回答者さんのお答えは正しいと思います。書籍を出している自称歴史家たちより遥かに高度な「歴史家」と言えます。

諸葛亮の攻撃は安牌、受け師タイプです

>将軍としての諸葛亮は、リスクの少ない着実な戦略を実行するタイプだったように思えます。
>堅実ですが、相手からは意外性が無く、行動の読みやすい将軍だったようにも思えます。
>諸葛亮の戦略は、ほとんどがローリスク・ローリターンなものでした。

その通りでしょう。

ロー・ハイ、どちらが良いかという議論は状況にもよりますので、難しいですね。

これはあくまでも私の考えですが、戦争がギャンブルであっては決してならないと思います。
兵力の少ない古代の局地戦ならハイリスク・ハイリターンで大勝利、名将と呼ばれた人もいたでしょう。しかし北伐クラスの大軍でギャンブルは絶対禁忌です。

まして現代戦争でギャンブルは有り得ない。
古代の考えを現代に持ち越せば、悲惨な結末になることは避けられません。太平洋戦争の結末は良い標本です。

 

諸葛亮は臨機応変な人だった!? 定説に異論

21/6/30追記。こちらは面白い質問・回答だったので引用します。

質問

gsktthktさん 2021/1/29 14:56

三国志の諸葛亮が軍事において

①得意だったこと

②苦手だったこと

を教えてください。

オーソドックスな回答

sad********さん 2021/1/29 17:51

①大軍の運用・撤退戦の上手さ
連年のように大軍勢を動員しながら兵站の崩壊は一度も起こさず、また国家経済にも大きな打撃を与えなかった。
毎回兵糧不足により撤退、しかも危険な山道を戻る困難な撤退戦を行っているはずなのだが、一度も追撃されて大打撃を追うような大敗を喫していない(最良のタイミングで撤退を決断している)。それどころか、安易に追撃してきた相手は伏兵で返り討ちにしている(王双・張郃)

②臨機応変の戦術(by 陳寿・司馬懿)
策の決断力実行速度(by 司馬懿)
負けないように戦うのは非常に得意なのだが、正攻法はできても相手の裏をかいて防御を崩す戦いは苦手。北伐も魏の裏をかけたのは最初だけで、以後は攻め手を欠き兵糧不足で撤退する展開が続いた。また司馬懿からは決断力にとぼしく、策を実行するのが遅いと指摘されている。

秀逸な回答(ベストアンサー)

kou********さん 2021/1/30 18:10

まあ、だいたい先のご回答の数々と同じなんですけど、

①作戦立案、部隊運用、陣地構築など、企画力は抜群。

②即断即決ができず、臨機応変の才にかけるなど、トラブルシューティングができない。

ということになろうかと思います。

思うに、これは、諸葛亮の才能と性格と立場(責任)によるのだと思います。

私は、諸葛亮って、ホントに臨機応変の才がなかったんかな、と最近思ったりしてます。
この人、撤退戦はめちゃくちゃ上手い。撤退戦で2度も敵将(その一人はあの張郃)を討ち取っている。普通、撤退戦(負け戦)で敵将を討ち取るなんて、そうそうできることじゃないです。

私は諸葛亮はホントは臨機応変の才もあったけど、性格と立場から慎重になり過ぎて、自分の才能を使いこなせなかったんじゃないか、という気がします。
で、負け戦になり、少々のギャンブルをやっても情勢には影響ない、というか、何もしなければ被害が増すばかり、みたいな状況になって、はじめて、その才能を発揮したんじゃないか、と。

一般に撤退戦が一番難しいと言われます。
その撤退戦で大きな損害を出さないばかりか、反対に敵将を討ち取ったりしてるんですから、実は、けっこうスゴイという気が。
まあ、深入りせずに形勢不利となったらすぐに撤退を決め込んでいる、という点もありますが。

官渡にしろ夷陵にしろ、負けた側の被害は甚大です。将軍もたくさん討ち取られたり捕縛されたりするし、兵士もたくさん死にます。
撤退戦で被害をほとんど出さなかったのは、諸葛亮の北伐と曹操の赤壁くらいなもんかもしれません。

そういう意味では、慎重派で攻め手に欠けるものの、慎重派だからこそ、引き際はわきまえている、そっちの方の臨機応変はできる・・・ということかもしれません。

ベストアンサーkou********さん、独自の解釈に驚愕しました。

他人の言葉をコピーロボットのように繰り返す人が多い三国志ジャンルで、このように史実を観察して独自視点で解釈する人は稀有ではないでしょうか。

しかも諸葛亮の日常に関する「創造性があった」「発明が得意」などのエピソードに拠らず、純粋に軍事行動だけ見て分析されているのはかなりの観察眼の持ち主。戦乱の時代なら手強い智将となる方かもしれません。

なお、「諸葛亮は実は臨機応変の人」とするのは現代性格分析のINTP解釈でも裏付けられます。ベースはP(改善主義)ですが戦場など責任の重い状況ではJ(計画主義)へ切り替えていたので手堅く見えたかもしれない。いっぽう日常業務ではPなので、別人と思われるほど自由な発想をしたと思います。

また諸葛亮は、若い兵士の命をギャンブルで賭けることができるタイプではありません。そのため攻撃では及び腰になってしまった。代わりに防衛なら遠慮なく本領が発揮できるため、回答者さんが仰る通り「臨機応変に」対処できたのかもしれません。

そもそも性根から臨機応変が苦手な人は撤退そのものができないのではないか、と思います。補給が絶たれても強行突破で進もうとして餓死者を出すケースは、古代だけではなく近代戦でも散見されます。東洋では何故かそのように強行突破で玉砕、あるいは餓死全滅したほうが賛美される傾向がありますが、諸葛亮には解せない価値観でしょう。

人格の低さを体現する回答者たち

あまり語りたくないのだけど、馬謖に関する質問と回答があまりに酷くて吐き気を覚えました。
曰く、
「諸葛亮は自分の作戦ミスを馬謖に押し付けて殺したのだ」
「馬謖は戦後処理をスムーズに進めるためのスケープゴートだった」
「諸葛亮が馬謖を処刑して泣いたのは、同情してもらって自分のミスをごまかしたいから」
等々……。

人としての心も、法に関する正常な判断も皆無なんでしょうか?(後で分かることですが、この書き込みをしている者たちは文字通りに「人間辞めた」者たちです。下記事参照)
馬謖をスケープゴートにするなど全く有り得ない。
まして周囲を感動させるために嘘の涙を流すとは。発想が鬼畜だし民度蛾低すぎて恥ずかしい。

こういう発想ができる人はサイコパスでしかない。あるいは某カルト思想に侵されて脳が構造変化し、後天性サイコパスとなった者たちか。
日本の民度を押し下げているのはこの者たちですね。
こういう者たちが鬼畜裁判官のように犯罪者を擁護して被害者を斬り捨てる行いをするのでしょう。罪なき人を貶めて苦しめることだけを悦びとする暴力愛好家たち。

【参考】「諸葛亮は馬謖に責任をなすりつけスケープゴートにした」と主張する者たちから直接メールが来たので、応答する形で彼らの正体を明かしてみました:

他者の言うなりが「人道主義」?? 赤ヘル氏の悪口メールに反応してみた

馬謖が刑に処された理由

気の毒ながら詳細を書いておくと、馬謖が刑に処されたのは
・命令に背くという軍規違反があった
・諫めを聞かず軍を全滅に追い込んだ
・指揮を放棄して逃亡した

という客観上の罪。
それに加えて主観上(内心)、
・自分独りが名誉を得ようとする自己中心の意思があった
からということになります。

または、もっと真相を推測するなら、馬謖には諸葛亮への背任意識があったと窺えます。
純粋に「功を立てたい。諸葛亮に褒められたい」と思ったからなのか? それにしては同行者の諫めも聞かずに無理な軍事行動をしたのは不可解です。
馬謖も諸葛亮のもとで軍事を学んでいたのだから、軍事知識はあったことでしょう。
「水路も確保できない山に布陣してはならない」ことは基礎中の基礎。その基礎を知らなかったとは思えません。
それなのにそのタブーを犯す。素人以下のやり方です。

【追記】以上の話(山登り)について、史実ではなくフィクション上の話だとする意見も多いのですが、私は古代歴史家による妥当な推論だと思います。いずれにしろ戦闘で敗北しただけではなく明白な軍法違反があったことは確かです。

陰謀に負けた可能性

馬謖は残念ながら諸葛亮を失脚させたい者たちの陰謀に負けてしまったのではないか、とも推測できます。
反諸葛亮派は、まさか可愛がっていた馬謖を諸葛亮が処罰するとは思わなかったのでしょう。その不公正さによって諸葛亮を失脚させるつもりだったと考えられます。しかし結果は違いました。
(これは私の推測であり、穿った見方かもしれません)

真相がどうだったかは闇の中、諸葛亮にも分からなかったことでしょうが(ということはつまり背任の疑いは罪の判断に含まれていない)、少なくとも
「未必の故意」
による兵士の大量死があったことだけは事実です。

※未必の故意とは:結果が予見できる状況において、そうなっても構わないと思いながら行うこと。使用例、「未必の故意による殺人」
つまり、虐殺にほぼ等しい。

法の運用は、法的精神(≒人道)に照らして行う

このような罪を見逃すことは、法的精神にも、また人道にも背くことでしょう。

上の、民度の低い知恵民は単に「馬謖が敗北したからスケープゴートにされた」とだけ思っているのですが、知的弱者ぶりをさらすのもいい加減にして欲しいです。
正当に戦って敗北したなら降格はあっても、処刑はあり得ません。
同じく敗北を喫した趙雲が降格されたものの処刑されていないことで裏付けられるでしょう。

戦闘の結果だけで処刑するのは不当処罰です。
(ナチス軍や曹操軍ならそのようなことはありそうですが)

信じがたいほど秀逸な回答

最後に、「マニアは凄い!」と驚愕した秀逸な回答を引用しておきます。
何故、このような人が書籍を出さずに、頭の弱い素人歴史学者ばかりが三国志本を出版しているのか謎です……。

諸葛亮>司馬懿? 三国将軍、軍事能力を知りたい

質問はこちら。

son********さん2018/8/2615:39:05
司馬懿って軍事能力はどのくらいだと思いますか?
諸葛亮とは部下の突き上げを抑えられず直接対決で負けてるので諸葛亮>司馬懿だと思いますが

陸遜や曹操と比べてどちらが上だと思いますか

司馬懿に関する質問なのですが、漢晋春秋さんの回答に驚きました。
日本人で、このように全般的な視点から分析した歴史学者を見たことがない。
一般の方なのでしょうかね? もったいないですね。こういう人がぜひ歴史に関する書籍を出し、他の無知な歴史学者を一蹴して欲しい。

長いけど回答全文引用させていただきます。

秀逸回答。司馬懿は名称、諸葛亮は類を見ず特殊

漢晋春秋さん 2018/8/2620:48:37

司馬懿は疑いなく名将ですよ。それも三國時代屈指の。
そして、名将と言えども判断ミスはするのです。

三國時代に名将と呼ばれるべき人物は数多いですが、異論が出なさそうな人物と言えば曹操、孫堅、周瑜、陸遜、鄧艾といった辺りですかね。個人的にはここに関羽を含めたいですが、関羽は名将と認めない人が何故か多くてねえ…( ̄∀ ̄;

で、司馬懿はこれらの名将に匹敵するだけの軍事的功績を挙げており、しかも目立った敗戦がありません。活躍期間の長さを考えると恐るべき実績と言えると思います。さらに活躍した場所(範囲)も北は幽州の外、西は五丈原、南は上庸と、魏領のほぼ全域に及んでいます。
さらに当時の用兵のセオリーを無視して行軍速度を極限にまで高めて孟達を撃滅した電撃戦、距離を頼みにして油断していた公孫淵を長駆遠征して屠った遠征戦(しかもこの時は往復の期間と費用まで正確に算出しています)、そして勅令を報じて固守しきった対諸葛亮(第五次北伐)の持久戦と、異なる風土、異なるシチュエーションでことごとく結果を出しているのは見事の一言に尽きます。
移動範囲で言えば孫堅に匹敵し、戦術の多彩さでは曹操に迫り、功績の大きさでは鄧艾に勝るとも劣らないという、欠点のほとんど見当たらないパーフェクトな名将と言えます。
敢えて失策を探せば、張郃に無理に追撃させて死なせた231年の第四次北伐の防衛戦がありますが、これはもしかすると軍務上の競争相手となり得た張郃をわざと葬った策略かも知れず、単純な戦術ミスとかではない可能性もあります。

なお三國時代でもっとも優れた名将は曹操であり、その地位と名声はまず揺るがないでしょう。司馬懿や陸遜などはその下の第二グループと言える評価をされて然るべきだと思います。

陸遜は目に付くのは夷陵の戦い程度ですが、若い頃には揚州各所でゲリラ的な活動で呉の名だたる名将達をさんざん手こずらせた山越の掃討に多大な戦果を挙げており、陸遜以後に山越の活動が下火になってくる事を考えても、それ以前に山越討伐を担当していた太史慈、賀斉、凌統といった名将達よりも明らかに能力上位と言えます。
さらに夷陵で完膚無きまでに破ったのは百戦錬磨で曹操も認めた一角の英雄たる劉備です。関羽の死と荊州の失陥後、約1年半かけて周到に準備し計画した劉備の東征を、完璧な戦術で一気に撃滅し、さらにその隙を狙った曹丕の干渉をも完璧に封じてみせたのは見事という他はないですね。
陸遜も生涯無敗と言ってよく、また後継者とした陸抗が呉末の防衛線を一手に支えた守勢の名将となった事を考え合わせても、戦場だけでなく後進の育成の面でも素晴らしい実績を残したと言えるでしょう。

そして諸葛亮ですが、彼は他とは評価基準が大きく異なります。
陳寿に評されるまでもなく、一般的な意味での将帥としては中流と言えると思います。可もなく不可もなし、卒はないし粗もなく、名将と呼ぶには物足りないですね。ただし、ある一点において彼は曹操をも上回る評価が出来ます。それは「消耗しない戦い方」です。
そもそも諸葛亮の戦歴と言えばほとんど南征と北伐だけなわけです。もともと将軍として活躍した人ではないので、司馬懿や陸遜、曹操などに比べて戦歴が劣るのはどうしても避けられません。しかし、この南征と北伐とはどちらも「三國時代に他に類を見ない特殊な戦い」であったことには注意が必要です。
南征はそもそも反乱討伐と南方異民族の鎮圧と慰撫であり、その意味においては呉の山越討伐と似た意味合いのある軍事行動ですが、諸葛亮はこれによって南方の資源と人的リソースを獲得しています。つまり戦った結果「消耗せずに回復した」わけです。こういう戦いの例は三國時代においては曹操の青州兵獲得ぐらいしか他に例がなく、曹操の例が「消耗したあと回復した」のを考えても異例な事です。
さらに北伐に至っては国力を損耗すれば弱体化し魏に攻め込まれるリスクを負った状態で、消耗しない戦いが最重要事項だったわけです。そのため諸葛亮の戦い方は「自ら攻め込み、消耗する前に退く」という特殊なものになりました。この難しい条件の下で諸葛亮は7年も戦線を維持したわけです。これは曹操も、もちろん司馬懿も成し得ていない特殊な軍事的功績と言えるでしょう。同じような戦い方を求められた後の姜維が国力の衰退を招いて結局魏に攻め込まれた事を考えても、諸葛亮がいかに異常な条件をクリアしてのけたか分かるというものです。
諸葛亮の軍事的功績は三國時代のみならず中国史全体を見ても類を見ない特殊な功績であり、どんな名将でもなし得なかった事を成したと言えると思います。名将とは呼べずとも、諸葛亮の軍才は決して過小評価されるべきではないと考えますね。

ナイス 2

他の人物については意見を控えましょう。
諸葛亮についてのみ感想を述べると、

>諸葛亮ですが、彼は他とは評価基準が大きく異なります。
>陳寿に評されるまでもなく、一般的な意味での将帥としては中流と言えると思います。可もなく不可もなし、卒はないし粗もなく、名将と呼ぶには物足りないですね。

全く仰る通り! 拍手を送りたい。
諸葛亮は一般的な軍事においては「中流」が妥当です。
さらに言えば、彼は自分で「中流」を守ろうとしたとも言えるでしょう。
(名将として功を立てようなどと微塵も思っていなかったということ。国家守護者としての仕事を遂行しただけ)

孔明は確かに東アジアで特殊です

>諸葛亮の軍事的功績は三國時代のみならず中国史全体を見ても類を見ない特殊な功績であり、どんな名将でもなし得なかった事を成したと言えると思います。

中国において「特殊」という点、おそらく正しいでしょう。

私の現代の目から見て当時の諸葛亮の軍隊の動かし方は、まるで西洋近現代のようです。
「手堅く、リスクを最小限とし」
「奇策をタブーとし」
「兵站を要とする」(補給路絶対。補給路が絶たれたら撤退する)
この考え方の基礎はたぶん現代欧米の軍事でも同じであるはずです。

奇策ばかりもてはやすのは東洋の悪癖

これはおそらく西洋では古代から常識だった軍事基礎なのですが、奇策をもてはやす東洋には馴染まなかったようですね。
だから特殊に見える。

やはり、東洋で浮いていて特殊に見えるということは……不可解なことに諸葛亮は「西洋人」の思考を持っていたということになるでしょうか? 法に関する考え方や態度も西洋的であるし。
まあ何故なのかということは、ここでは深く考えないでおきましょう。

※諸葛亮が西洋の異民族だったということはないのでここを読んだ方はまた稚拙な説を立てないようにしてください。彼は純血の漢人です。

謝辞

知恵袋には色々と愚かな質問・回答が多いのですが、自称プロ以上の優れた知識をもって誠実に回答してくださった方々、ありがとうございました。
勉強になります。

私もこの優れた回答者たちの文章で現実の知識を深めたいと思います。

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