孔明はなぜ、いつも羽扇を持っていたの?(+羽毛扇伝説を読んだ感想)

気楽な三国志雑談をもう少し増やしておきます。

これは2018年頃にプライベートで語っていた雑談。今さら古い話を掘り出してきたと思われる読者様もいるかも。

こちらに上げたつもりでいたのですが忘れていたようです。改めて書き直して上げます。

 

孔明はなぜ、いつも羽扇を持っていたの? との疑問に回答

フィクションの諸葛孔明はいつも羽の扇子――羽扇(うせん)を持っていますね。

冒頭アイキャッチ画像で引用した『パリピ孔明』参照。右側キャラがフィクション三国志から東京・渋谷へ異世界転生してきた孔明先生。彼が手に持っている羽扇は、たぶん横浜中華街で売っているやつ。笑

この最近のアニメでも描かれた通り、孔明は肌身離さず扇子を持つ姿でイメージされます。

でも不思議に思いませんか。孔明は何故、あれほど頑なに羽扇を持ち歩いているのか。

あまりにもお馴染みのスタイルなので三国志ファンの方は疑問に思わないのかもしれません。

「軍師とかって扇子を持つものなんだろ」と考えている人もいる。

「あの羽扇は日本の戦国武将が持っていた軍配と同じ役割の物。孔明が戦場で、軍隊を動かすために振って使った」

などと知ったかぶりで三国志初心者さんに解説している人も見かけます。

 

その認識、誤りです。


史実の諸葛亮は羽扇を持っていませんでした

 

がっかりさせる話を断言して申し訳ありません。これは私の感覚に基づく確信。

しかしちょっと考えれば理屈でも分かるのではないでしょうか? 現実の諸葛亮には扇子など持ち歩く理由も、余裕もなかったと。

 

扇子では軍隊指揮は難しい

まず「孔明は羽扇を軍配として使い、軍隊を動かした」というイメージについて。

このイメージはかなり非現実的と言えます。遠くから人の手元の扇子など見えないからです。

大将が高いところに立って扇子を振っても、人間離れした視力の持ち主以外の兵たちは走るべき方角も分からず右往左往するだけとなります。

近いところの兵から遠くの兵へ伝聞で命令を送る…という方法も考えられなくはないですが、あまりに時間がかかり過ぎて危険ですね。わざわざそのような効率の悪い命令手段を採る理由が分かりません。伝聞の回数が多ければミスする確率が高まりますし。効率と安全性を重視する諸葛亮なら採用しなかったと思います。

 

似たアイテムに日本の軍配(ぐんばい)があります。

しかしあれも実戦で軍を動かすために使った物ではなさそうです。主に占いや神事に用いられた物だそう。あるいは大将であることのシンボルだったか。

日本の戦国武将は威厳を保つため戦場で軍配を握っていたのかもしれませんが、やはり軍配で軍隊指揮したとは考えにくいです。

 

現実どうやって軍隊を動かしたか?

では現実の戦闘で孔明はどのように軍隊を動かしたのでしょうか?

 

回答は、「現場の各隊将軍に戦術を預けて任せた」となります。

 

予め細かい戦術を将軍に伝え、現場での命令は将軍にお任せする。これが規模の大きい戦闘での原則です。特に諸葛亮の場合は。

と言うのは、もともと蜀において諸葛亮は軍務全体の長官で、戦闘中は国内で結果を待っていました。全体戦略とともに全戦闘の戦術を立ててもいましたが、それは軍隊が出撃するより前の時点。現代のように電話やネットで現場とリアルタイムでのやり取りはできませんので、現場の指揮は現場の担当者に任せるしかないわけです。

自分で率いて出た北伐でも軍隊の規模が大きかったため、戦場で直接に全軍を指揮することなど不可能。ですから諸葛亮は国内で戦術を立てるのと同様、後方で戦局を眺めながら伝令担当に将軍への命令を届けさせていたと考えるべきです。

「扇子を振って軍隊を動かす」というフィクションイメージを事実だと信じてしまえるのは、おそらく皆様が想像している軍隊規模がとても小さく、戦場と大将との距離感が近いと錯覚されているからではないかと思います。

中学校の運動場みたいな狭いところで戦っているイメージ、か。その架空の距離感も作家が作り出したイメージ。分かりやすく伝えるための作家の高等技術だったのでしょう。

 

ちなみに現実において、各隊の将軍が現場で兵を動かすには太鼓が使われることが多かったはずです。

扇子での号令はあり得ないとして、大きな旗を振って合図したとしても見間違いが起きやすい。遠くまで音が響き渡る太鼓を使ったほうが遥かに効率的かつ安全だったと言えます。

旗振りなど視覚に訴える号令手法が全く使われなかったとは言いませんが、伝達範囲が狭いため規模の大きい戦闘では用いるのが難しかったはず。唯一、視覚で効果が高かったのは狼煙(のろし)ですね。ただし狼煙は彼方の敵にも合図を届けてしまうので、使える場面は限定的だったと言えます。

なお太鼓は実戦で兵士たちの士気を高めるためにも用いられました。近代戦でさえ楽隊を使って士気を高めていた事実があるのですから、太鼓が神聖とされていた古代中華ではなおさら効果的だったと思います。

もちろん騎馬隊が走り出し地鳴りが響き渡り、兵士たちが興奮の絶頂に至る戦闘中には聴覚への訴え効果も低くなります。砂埃が舞い上がるため視界も閉ざされる。

したがって戦闘が始まる前に可能な限りの“IF”を想定して戦術を練り、兵士たちへ伝えておくことが重要でした。

 

そもそも多忙で扇子など持ち歩けなかった

諸葛亮が現実に扇子を持ち歩いていなかったと言う最大の裏付けに、死ぬほど多忙だったという史実があります。

食事の時間も睡眠も削って仕事せねばならない人生だったのです。現代風に言えば一分一秒でも惜しい毎日。

優雅に羽の扇子など持ち歩く余裕があるものですか。理由もないのに。

 

羽扇など現実に持っていたはずがないとの証明は、ただこの

忙し過ぎて無理!!

の一言で済む気がします。

私だったら死ぬほど忙しいときに羽扇を持つ義務を強制されたら、わざと忘れたふりをして持ち歩きませんね。習慣に反すると周囲に怒られても羽扇アクセサリは部屋へ置きっぱなしになると思います。

…反抗的で申し訳ございません。無意味な服飾品を身に着けたり持ち歩くことが苦手なタイプです。アクセサリも滅多に付けません。おそらく諸葛亮も同じだったでしょう、ギフテッドであることが明らかですから。「変わり者」と呼ばれるギフテッドには装飾品自体の意味が分からんのです。理にかなっていて有用だと納得できることしか実行できません。

 

三国時代を過ぎて後世、平和な時代では貴族たちが優雅に見せるためのアイテムとして羽扇を持ち歩くようになったそうです。

日本でも飛鳥時代~平安時代頃から、公家の人たちが長いしゃもじのような笏(しゃく)を持ち歩くようになりました。笏はカンニングペーパーだとの説がありますが、公家らしく気品あるように見せかける装飾品だったと考えられます。

そのように無意味な装飾が流行するのは平和な時代に限られます。戦乱極まる三国時代に羽扇が流行したと考えるのは非現実的でしょう。

 

なぜフィクションで羽扇を持ち歩くスタイルが創られたのだろう

ではいったいなぜ、『三國演義』などフィクションで描かれる孔明は羽扇を持つことになったのでしょうか?

 

正確なことは私も知らないのですが、千年以上後の創作『三國演義』で初めて創作されたスタイルなのではなく、先に民間の間で創られたイメージだったことは確かです。

 

三国志の上級マニアさんたちの間では次のような見解が一般的となっているらしい。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10158422720より引用:

ナイト67さん 2016/4/21 11:00

この羽扇や綸巾などは道教の「道士・仙人」を表すものであり、諸葛孔明が「神秘的な力を持っている」とする「記号」のようなものだと思われます。

三国時代の後の西晋・東晋の時代には「老荘思想」が流行し、知識層の間では「清談」が流行しています。

「竹林の七賢」などが有名で彼らは後に道教で言う「仙人」とされる事もあるのですが、この当時の上流階級・知識層が好んで用いたのが「羽扇と綸巾」でした。

これは「道士の服装」として後世に渡って認識され、実際の道士たちも羽扇を持ち綸巾を被る事が多かったとされますが、こうした道士・仙人に模されたのが諸葛孔明だったという事です。

諸葛孔明の出身地・本貫の地とされる「琅邪」は道教が盛んな土地であり、古の徐福や演義では孫策を呪殺する逸話がある実在人物である「于吉」などもこの地域の出身とされているように、「仙人の本場」でもあるわけです。

宋代には既に神格化されていたと云われますが、明初期に成立した三国志演義では諸葛孔明に仙人のような衣裳や持ち物を与える事でイメージを定着させたという事です。

ちなみに、羽扇のような「鳥の羽で作った扇子」自体は前漢代から存在したようです。

ですから、後漢末~三国時代に生きた諸葛孔明も平時では使っていた可能性があるという事ですね。

「羽扇・綸巾を身に付けて戦場・朝議に出る」という事は後世の創作であったと思いますが、家の中などでは画像のような姿で過ごしていたのかもしれません。

>家の中などでは画像のような姿で過ごしていたのかもしれません

過ごしていないでしょう。笑

家の中ならなおさらやっかいな装飾品は身に着けなかったと断言できます。日常あのような恰好で過ごしていたらストレスが溜まってしょうがないと思う。本人が『出師表』で書いているとおり、もともと「布衣(一重のシンプルな着物)」。シンプル好きを読み取ってほしい。

しかしその他の話は参考になりました。

>「竹林の七賢」などが有名で彼らは後に道教で言う「仙人」とされる事もあるのですが、この当時の上流階級・知識層が好んで用いたのが「羽扇と綸巾」

なるほどそうだったんですね。あれは“道士”のスタイルなのか。

 

ただその上流階級での流行が先にあってフィクション孔明のスタイルが作られたのかどうか疑問です。先に庶民の間で孔明の羽扇イメージが作られ貴族たちが模倣したとも考えられます。

私の得た知識では、諸葛亮の死の100年後にはすでに「羽扇・綸巾」を身に着けた孔明人形が山車に乗せられ、お祭りが行われていたそうです。つまり民間では早くから孔明=羽扇スタイルが確立していたらしいので、貴族たちが模倣して羽扇を取り入れた可能性もあります。

 

なぜ鳥の羽だったのか? について明確なことは分かりません。

上に引用した知恵民さんが仰るように「単に漢代の扇子は鳥の羽で作られていたから」かもしれませんが。

不思議と諸葛亮には鵬(おおとり)の象徴が付きまとっており、そのイメージを投影して羽扇を持たせた可能性はあります。

本来諸葛亮は“臥龍”と呼ばれたのであって、鳳凰の雛と喩えられたのは龐統だったはずですが。二人合わせたイメージなのか?(それはないと思う…) 不思議。

ただ個人的に思うに、軟弱者な諸葛亮には厳めしい龍よりも鳥のほうがまだ合う気はします。

 

羽毛扇伝説を読んだ感想

以下はおまけで、大紀元に掲載されていた民間伝承を読んだときの感想です。

諸葛亮がなぜ羽扇を持つ姿でイメージされることになったのか、やはり昔(唐代)の人たちも不思議に思っていたようで色々と伝説でこじつけようとしていた様子が分かります。なかでもこれはたぶん、かなり苦しいほうの創作。

2018年執筆。常体です。今の考えに合わせて若干修正しています。

 

唐人作の物語を読んだ感想

『諸葛亮の羽毛扇に秘めた物語』 http://www.epochtimes.jp/2018/01/30458.html

という記事を読んだ。

当たり前のことだが、これは民間伝承のファンタジー。史実ではないので鵜呑みにしないでください。

色々と突っ込みどころ満載な物語。
そもそも「羽毛扇」という小道具からして、常時持参している意味が私には全く分からないのだが。あんな邪魔なものを持って庁舎を駆け回ったり、膨大な書類を片付けるなどの仕事ができるのか? 『三国演義』が編まれた頃の中国官吏は、よほど優雅な暇人ばかりだったのだなと想像する。(冗談です。現実は大変な時代。庶民には大変さが伝わっていなかっただけだろう)

上URLから物語を引用していく。

諸葛亮の幼少時代については謎が多いが、中国ではこんな伝説が残っている。

諸葛亮が8、9歳の時、まだ喋ることができなかった。家は貧しく、父は彼に近くの山で羊の放牧をさせていた。

諸葛亮は他の人々より多めに記録が残っているのに何故「謎が多い」と仰るのか分からない
そして何故、貧乏キャラなのかよく分からない。笑(青年時代に貧乏ではあったが生まれた家の格は高かった。名家出身)
9歳で「まだ喋ることができなかった」という設定は最も謎。

その山の中に道教の寺院があり、白髪の道士が住んでいた。……道士は諸葛亮のことが気に入り、彼の病を治して言葉が話せるようにしてやった。「家に帰ってあなたの両親に、私の弟子になるということを伝えなさい。読み書きや天文地理、陰陽八卦、兵法などを教えよう。ご両親がそれに同意したならば、毎日ここに勉強しに来なさい。一日も怠けてはいけない」。

それから諸葛亮は道士に弟子入りし、雨の日も風の日も、毎日山へ行って教え請うた。諸葛亮は勉強に励み、一度目を通した文章は全部憶え、一度聞いた話はしっかりと記憶した。道士はますます諸葛亮のことが気に入り、熱心に教えた。

【要旨で引用】ところがこの七、八年後。諸葛亮は雨宿りした寺で若く美しい女と出会った。女性に会うためその寺へ足しげく通ううちに勉強に身が入らなくなり、「考えもまとまらず、道士が話したことはすぐに忘れてしまうようになった」という。
道士は落胆して言った、

「私はお前が賢い子だと思い、必要とされる人間に育てるために病気を治し、弟子にしたのだ。数年前のお前は賢く、努力家だった。しかし、今のお前は怠け者に変わってしまった。こうなれば、いくら賢くても意味はない」

道士、理屈が通らず。笑
もし不憫だったとか、なついてきたので可愛くなったという理由であれば、「賢さ」などどうでも良いはずだろう。逆にもし始めから「賢さ」だけを求めたなら、わざわざ喋ることもできない子に目をつけないだろう。

道士が言うには、

「お前が親しくしているあの女性は、普通の人間ではない。彼女は、もともと天宮の一羽の鶴で、王母の桃を盗んで食べたために天宮から打ち落とされたのだ。人間の世界に来て美女に化け、勉強もせず努力もせず、ただ遊び暮らしている。お前は彼女の美貌に惹かれただけで、怠けている彼女の一面を知らなかったのだ。もしお前も彼女と同じようにふらふらしていれば、一生何も成し遂げられないだろう」

とのこと。
慌てふためいた諸葛亮が「どうすればいいですか?」と尋ねると、

「あの鶴は毎晩、夜中の1時に鶴の姿に戻り、天河まで飛んでいって風呂に入る。この時、お前は彼女の部屋に入り、彼女の衣服を燃やしなさい。この衣服は彼女が天宮から盗んできたもので、燃やしてしまえば二度と美しい女性に化けることができなくなる」…
「あの鶴は、寺が燃えているのを見れば直ちに天河から飛び降りてくるだろう。もしお前を攻撃しようとしたら、この杖で追い払いなさい。このことをしっかりと覚えておきなさい」

と言って杖を渡した。
諸葛亮は言われた通りにした。
寺が燃えると鶴は戻って来て、道士が言った通り攻撃してきたが、格闘の末に追い払った。
その時、諸葛亮の手元に残ったのが鶴の尻尾の羽毛だった。
諸葛亮は事件の教訓を忘れないよう、戒めとして鶴の尻尾の羽毛を扇子にして持ち歩き、勉学に励んだのである。
めでたし、めでたし。(?)

感想を一言。

――動物虐待、反対。

あと、女性に対する扱いも酷いと思った。
勉強が大事なら普通に彼女へ「さよなら」と言うか、寺へ行かなければいいだけではないか。それも酷いかもしれないが相手に危害を加えるよりいい。まだ何も悪さをしていない相手の衣服を、何故に燃やす必要がある?

何ら情緒も愛もないストーリーに落胆する。
と言うより、日本の物語の完璧さに改めて気付き驚いた。
同じく鶴を登場させる物語『鶴の恩返し』の美しさ。あの優しさと愛情に溢れた物語は、思い浮かべるだけでも心が温まる。
言うまでもないだろうけど私は『鶴の恩返し』のほうが好きだ。

『羽衣伝説』ですら、これより遥かに美しい。
惚れた女の衣を隠して天へ帰れなくしてしまう男。考えようによっては罪深きストーカーの物語なのだけど、帰れなくなった天女の悲しみを眺め苦悩する男の心情など、妙にリアリティがあり共鳴しどころがある。少なくとも愛を描いている。

『羽毛扇伝説』には愛がなく、感動のしどころがない。「自分の出世のためなら動物や女性に対して酷いことをしてもいい」と言っているようで心が寒々とする。
これが教訓物語だとしたら、いったい何の教訓を学べばいいのか分からないな。
たぶん「勉強を怠けるな」ということが言いたいのだろうけど、子供たちはこの物語を読んで勉強に励むようになるか? 『アリとキリギリス』のように描かなければ無理だと思うが。

設定は矛盾だらけ(いくらファンタジーでも整合性が無さ過ぎる)、弱者虐待を奨励するかのような場面を平気で描く、何より「能力主義・出世第一」という価値観がおかしい。どこに感動すればいいのか、私などは悩んでしまう。

たぶん諸葛亮はどちらかと言えば『鶴の恩返し』的な人間であって、『羽毛扇』の主人公的ではないと思う。
唐代以降の人たちは人間観察すらできなくなってしまったのか。
なるほど、韋皋と諸葛亮の違いすら分からなくなってしまったわけだ。
やはり科挙がいけなかったのかな?

血筋に関わらず優秀な者を登用しようという公平な理念は素晴らしかった。しかし次第に受験戦争が過酷になっていき富も絡んで欲得が第一となったので、科挙を目指す人々が「志」の意味を間違ってしまったのではないかと思う。

心が冷えてしまったので日本版『杜子春』(芥川龍之介)ラストを引用しておこう。

「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇(すがめ)の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反(かへ)つて嬉しい気がするのです。」

――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」

最高。こういう人間になりたい。