Wikipedia「曹操」虐殺・粛清の史実が書き込まれました

Wikipedia「曹操」虐殺・粛清の史実が書き込まれました

Wikipediaの「曹操」ページは長年、曹操称揚に偏った記述しか書き込まれず、虐殺や粛清などは一部の有名な事件を除いて故意に省かれていました。

このような人物評価修正のための偏向はWikipediaの公平理念に反すると考えられ、改善が必要でした。

このたび有志の方によって、「虐殺・粛清」の項目が追加されましたのでご確認ください。また、今後この項目が削除されないよう皆様の目でウォッチ(監視)お願い致します。

【現時点でのアーカイブ保存しました】

https://web.archive.org/web/20221219022344/https://ja.wikipedia.org/wiki/曹操

この「虐殺・粛清」に列挙された話はあくまでも史書に記されている記録のみであり、削除された場合は必ず政治思想イデオロギーによる「歴史修正」の意図を含むと考えて良いでしょう(誤字や誤記などの細部の修正は除く)。

イデオロギーに基づく「歴史修正」の犯罪を許し続けてはいけません。改悪されたときは復帰を試み、埒が明かなければWikipedia管理者へ連絡してください。

以下に保存のため今回追加された項目を転載※しておきます。

※転載について、著作権法上の問題はWikipediaのクリエイティブ・コモンズ-CC表明によりクリアされています。つまり、「この表示があるページの著作物は不当な目的のためでなければ自由利用が可能」という意味です(ただし各サイトによって自由利用を許諾する範囲は違いますので注意)。

皆様も下記の文を引用、拡散お願いします。YouTubeでの利用、当記事へのリンクも歓迎です。

 

曹操の犯した虐殺、粛清

同タイトルの項目より転載。

曹操は数多くの殺戮をした人物として知られているが、それら殺戮の話は『三國演義』で初めて創作された作り話ではない。 以下に曹操が犯した殺戮事件について、正史(陳寿『三国志』[56])本文および裴松之注に引かれた史書の記述を列挙する。 なお上項目の経歴と重複する話もあるが、虐殺について当項目でまとめるため改めて記した。また、各殺戮事件には「事実と異なる(殺戮事件そのものが無かった)」とする反論や、極端に死傷者の数を少なく解釈して被害を過小評価する主張、または「正しい虐殺だった」と述べて殺戮を正当化し擁護する主張が存在する[57]が、当項目では史書記録を列挙するのみとし近現代学者の主張は割愛する。

  • 呂伯奢一家の殺害。

曹操が董卓暗殺に失敗し逃走していたとき匿おうとしてくれた呂伯奢と、彼の家人を皆殺しにした。殺害に至った経緯については上述の通り、「呂伯奢の息子が馬を盗もうとしたため正当防衛で殺害した(王沈魏書』)」、「呂伯奢一家のもてなしを受けた後で、通報されたら困ると考え殺した(裴松之注『世語』)」、「呂伯奢の家人が食事の用意のために食器を並べていた音を武器の音と勘違いし、殺される前に殺した(孫盛『異同雑語』)」と史書により多少の違いがある。なおこの事件の後に曹操が「われ人に負(そむ)くとも、人われに負くことなからしめん(『異同雑語』)」と捨て台詞をして逃げた話は『三國演義』で引用され、曹操の人格を表す台詞として大変有名となった。

  • 洛陽の北部尉時代、厳しい禁令をつくり僅かでも破った者へ極刑を下した。

霊帝に寵愛されていた蹇碩の叔父も、禁令を破り夜間外出したために即座に捕えて撲殺したという。都の人々は震え上がり曹操を憎んだが、追放する口実がなかったため彼を頓丘県令に推挙することで追い出した(呉人『曹瞞伝』[58])。

  • 攻略した城の破壊、略奪、徐州等の住民虐殺。

上述されている通り、曹操は父親が徐州で殺されたことを怨み、193年、194年の二度にわたり徐州を襲撃した。史書には「曹操の軍によって徐州では男女数十万人が殺され、鶏や犬など動くものは全て殺された。泗水は投げ込まれた死体で堰き止められ流れが止まった。この虐殺によって徐州の五県では人の姿が途絶えた(范曄後漢書[59])。徐州住民虐殺については『三国志-武帝紀』本文に記載がないことを根拠として「虐殺の史実は無かった。死者は全て軍人と餓死者であった」とする反論も多く展開されているが、実際は本文にも「曹操軍が通り過ぎたところはどこでも多くの住民が虐殺された[60]。」と各所の虐殺を一括した表現による記載がある。

  • 降伏した敵兵の捕虜を虐殺。

曹操は戦闘後に降伏した敵兵の捕虜を、生き埋めや斬首などで殺害していた。特に袁紹軍の捕虜については「将らの首を斬り、捕虜数千人を殺害し、全員鼻をそぎとり、牛や馬は唇や舌を切りとり、袁紹の軍に誇示した。袁紹の将兵は皆、恐れおののいた。」と詳細が記述されいる(烏巣戦の記述。『三国志』『曹瞞伝』)。また鄴の戦いでも袁氏の婦女子に対する蛮行、略奪と虐殺が記されている(『後漢書』)。裴松之注にも「諸書にすべて、公(曹操)が穴埋めにした袁紹の軍勢は八万ないし、七万だと書かれている。」と記されている。”諸書にすべて”とあることから、曹操が戦闘後に降伏した敵兵の捕虜を惨殺し略奪していたことは当時は誰もが知る事実であったと推測される。

  • 献帝の忠臣を大量に粛清した。

曹操が許に献帝を迎え権勢をふるうようになった頃の記録に、「宮廷の内外で曹操によって誅殺された者が多くいた」とある。粛清された被害者の代表として趙彦の名が挙げられている。趙彦は献帝へ献策したことで褒美を賜られたが、このことが曹操の怒りを買ってすぐさま処刑された(『後漢書』)。

  • 私怨で多数の人物を殺害。

曹操は許で献帝を傀儡とし実権を得た後、かつて自分を批判した者など怨みがある人々を殺害した(孫盛『魏氏春秋』陳琳の檄文)。辺譲は博学で曹操にも屈せず批判的な議論を続けたため、曹操の怒りを買って処刑された。袁忠は沛国の相だったときに曹操が法を犯したので罰しようとし、曹操の怨みを買った。袁忠は遠方の交州へ亡命したが、曹操は使者を派遣して地元の豪族へ依頼し、袁忠と一族を皆殺しにした。かつて曹操が若い頃に侮って彼を見下した桓邵も、同じく身の危険を感じて交州へ亡命していたが曹操の差し金により一族皆殺しとされた。

  • 建安5年(西暦200年)の大処刑事件。

許に迎えられた献帝は名ばかりの天子となり、曹操の傀儡となっていた。車騎将軍の董承は献帝の密勅を受け、曹操の暗殺計画を企てた(『三国志-先主伝』[61]。しかし事前に発覚し、計画に関係した者[62]は一族もろとも処刑された。このとき董承の娘は献帝の妃で妊娠していたが、彼女も捕えられ殺害された。

  • 皇后とその一族を殺害。

前述した董承らの処刑事件で、天子の子を妊娠していた妃まで殺害した曹操に恐怖を覚えた皇后の伏寿は、もと屯騎校尉であった父親の伏完へ「帝は董承が殺されたので曹操を怨んでいる。残忍な曹操は排除すべき」という内容の手紙を送った。しかし伏完は曹操を恐れて排除を実行できないまま死んだ。この手紙が十四年後の建安19年(214年)に発覚し、曹操は激怒して伏寿を廃后、幽閉した。彼女は幽閉されたまま死亡し、兄弟ともども伏一族は処刑された(『三国志-武帝紀』)。他史書による詳細によれば、曹操は華歆に命じて兵を使って宮中に押し入った。皇后は二重壁の中に隠れたが、壁は壊されて引きずり出された。ちょうどそのとき郗慮と会っていた献帝は、髪を振り乱し裸足のまま連行されようとしている皇后が「陛下、またお会いできるでしょうか」と涙ながらに助けを求めたのに対し、「私でさえいつまで命があるかわからないのだ」と言って為す術なく眺めることしかできなかった。皇后はそのまま連れて行かれて殺され、彼女の一族も数百人が殺された(呉人『曹瞞伝』)。この皇后殺害事件の後、曹操は娘を献帝に嫁がせて皇后とし、自らは天子姻戚の座にすわり強大な権力を手中に収めた(『三国志-武帝紀』)。また、伏寿と献帝の間には子が二人いたが、この子供たちも毒殺されている(『三国志-先主伝』)。

  • 孔子の子孫である孔融を殺害。

博学な学者として名声が高かった孔融は、実権を握った曹操にも怯まずに率直な意見を続けていた。これを疎んじた曹操は「孔融が呉の使者に対し朝廷を誹謗する発言をした」と罪を被せ、孔融の妻子とともに処刑した(『後漢書』)[63]

  • 名医の華佗を拷問の末に処刑した。

華佗は曹操の頭痛を治療していたが、曹操が自分を見下して粗末に扱っていたため不満を覚えて故郷へ帰った。その後、曹操からの召喚に対して「妻が病床にある」ことを理由として応じなかったが、妻の病が虚言であることが露見し曹操は激怒した。曹操は華佗を捕縛して投獄、長期の拷問をくわえて殺した。後に曹操は自分の頭痛が悪化したとき華佗を殺したことを後悔している(『三国志-華佗伝』)。

  • 崔琰の投獄と自害命令。

崔琰は優れた体格と威厳ある容姿をしていたため、容姿に自信がなかった曹操の代わりとして使者の応対をしていた(『世説新語』)。後に崔琰は丁儀の讒言で投獄されたが、囚人となっても立派に見えたため曹操に疎まれ自害を命じられた(『三国志-崔琰伝』)。崔琰は人望があり、「曹操に嫌われ殺害された人物のなかで、崔琰は最もその死を惜しまれ、未だに冤罪で殺されたと信じられている」と陳寿が評している。

楊脩は曹操が劉備と戦い、漢中を取ることができずに「鶏肋」と負け惜しみを言った際、その暗合を解いた唯一の人物だった。しかしそのことがあった直後に曹操が彼を処刑している。処刑の理由は不明。袁術の甥であったことから曹操に警戒されて処刑されたとする説(『後漢書』)、曹操が嫌う曹植の味方をしたことで疎まれ処刑された説(『三国志-曹植伝』、『典略』)など諸説が史書に記されている。楊脩は禰衡が「許昌には孔融と楊修しか優秀な人材がいない」と評した人物であり、その死は大変に惜しまれた。

  • 優秀だった少年を危険視して殺害。

幼少時から天才として名高かった周不疑を、曹操は始め息子の曹沖の側近にしようと考えていた。しかし曹沖が死亡した後、曹丕には扱いきれないだろうという理由で彼を危険視し殺した。享年17歳だった(『三国志-劉表伝』)。

  • 愛人を撲殺。

曹操は昼寝をするときに寵愛している女性を傍にはべらせる習慣があった。あるとき「すぐに起こしてくれ」と言って女性の膝枕で寝込んだが、よく寝ていたために起こせなくなった女性がそのまま寝かせていた。しばらくした後に自分で目を覚ました曹操は激怒して、この愛人を撲殺してしまった(『曹瞞伝』)。

  • 兵糧不足の責任を担当係へ押しつけ、処刑。

敵の討伐に赴いた際、糧秣が不足してきたので困った曹操は担当係を呼んで「どうしたら良いか」と訊ねた。すると担当係は「枡を小さくすればどうにか食いつなげます」と答え、曹操はその通りにした。しかし兵士たちが枡が小さくなったことに気付き、「曹操は自分たちを騙している」との噂が流れると兵糧の担当係に罪をなすりつけ処刑し、「この男が枡を小さくして糧秣を盗んでいた」と布告して遺骸をさらした(『曹瞞伝』)。

 

近現代の再評価(評価修正)

この項目も不十分であったために加筆されました。しかしまだ不十分で、事実を隠蔽した偏向があると思います。毛沢東と中国共産党が主導した歴史修正について、さらに詳細加筆を求めます。

『三国志演義』の影響によって悪役としての評価が定着した曹操であるが、1950年代以降に入ってからは、「反儒教」のイデオロギーを掲げる中国共産党下の学者によって評価修正が進んでいる。

中華人民共和国成立前の近代の中国においては、西洋の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した背景に、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合理性を追求した曹操の施策が、魯迅など多くの反儒教イデオロギーを持つ共産主義者によって評価修正された[64]

特に曹操の評価修正を盛り上げたのは毛沢東で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。郭沫若が戯曲において曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、文化大革命の時の批林批孔運動でも、曹操は反儒教の人物として肯定された。なお「反儒教」とはマルクス主義に基づくイデオロギーの運動である。マルクス主義を始めとする共産主義では帝国主義の骨格となる伝統を否定し、人々の精神である文化を破壊し再教育(洗脳[65])することで、真に革命が成功すると考える。このため暴力で政権を奪い、恐怖政治によって人民を支配した後も、”精神の革命”である文化破壊と再教育が続けられる。中国など東アジアでは人々の精神文化の根幹となっていた儒教・仏教・道教が”啓蒙”こと破壊のターゲットとなった[66]。『三国志』は特に蜀漢が儒教的であるとの烙印を押され、共産革命による攻撃のターゲットとなった。従って中国共産党が大躍進政策などで政権基盤を固めていた1950年代から、蜀漢を貶めて曹魏を称揚するための歴史修正議論が噴出している。

「曹操は黄巾乱を承継して中国統一を果たすための礎を築いた」「曹操は民族主義で中国を守った」「曹操の屯田、新税制は農民を地主の圧政から救い、飢民を消失させた」とする郭沫若を始めとする曹操称揚の説は『曹操論集』にまとめられ、その後の三国時代解釈の教本とされた。当記事中「曹操の大躍進」も『曹操論集』の踏襲だが、これは毛沢東の大躍進政策を曹操に投影して称賛しているものと見られる。好並隆司もこの件について『曹操論集―曹操論争よりみた中國「中世」史の理論―』(1960.09,洋学報 : 東洋文庫和文紀要 / 東洋文庫 編)のなかで

所で、この論争(引用者注:郭沫若を発端とした曹操評価変更の議論)の背景には極めて大きな思想斗争が含まれ、政治的な問題が介在していると思われる。先ず、その事情について概略ふれておこう。新中國が解放以来、八年間に、ブルジョア思想の批判、反右派斗争はほぼ所期の目的を達したが、なお一部の知識人には革命の実践を避けて、古代史研究に名をかり、中國の建設をサボタージュする分子が存在するという痛切な批判が中共中央宣伝部の陳伯達から問題にされた。これが五八年三月上旬のことであり、彼の報告をきつかけに”厚今薄古”の必要性が問題となり、歴史の研究の大勢が、五四運動以降の近代史重點という風に理解されたのである。これ以降、中國史學界は急激な左翼志向を生じ、…(略)

と解説している。

批林批孔運動では、儒法闘争史観が主張された。これは中国思想を儒教の系譜(孔子・孟子などが中心)と、道家法家兵家墨家(老荘・韓非子孫子墨子等)や王充の二つに分け、儒家を悪の権化として法家を善玉とする史観である。中国共産党からすれば、これら二つの思想は「革命」の段階的進行であった、と説明されている[67]。身分制度を重視し、男女差別を人倫の基とした儒教の系譜に対しては否定的な評価がなされ、合理性を追求した法家の思想には甘い評価が為される傾向がある。その中で、曹操は法家の重要人物として高い評価を与えられた。そのため、曹操も単なる「悪役」から多少味のある「悪役」程度には評価を変えてきているようになり、京劇の隈取りも善玉のものに変えるよう政府から指示されたという(前述竹内論考)[注 14]

 

スクリーンショット

履歴に書き込み内容が残り、さらにアーカイブにページ保存もされているため不要かもしれませんが、念のため今回の改善が行われた証拠としてスクリーンショット画像も撮っておきました。参考までに。

 

三国志人物および、始皇帝ページの改善を求めます

今回は曹操のページだけ改善されましたが、まだまだ「屯田制」や「大躍進」「税制で飢民救済」など曹操称揚イデオロギーによるこじつけ・歴史修正の跡が残っており、改善の余地があると思います。

曹操のほかにも劉備、諸葛亮、関羽などのページに歴史修正の痕跡があり、改善する必要があります。

また、“本丸”と言える始皇帝のページは近年の中国共産党の統一政策によって歴史修正が強行されています。防衛の必要があると思います。

有志の方は引き続きご協力を願います。

ただし、この歴史修正を工作している相手は中国共産党と日本の共産主義者です。アカウントご利用の際は個人情報に十分お気を付けください。(ご存知の通り彼らは暴力主義者であり、世界中で殺戮を行っている集団です。下の記事参照。個人情報を明かしているアカウントで書き込みをすると身体へ危険が及ぶ可能性があります。ご注意を)

共産主義者は世界中で何をしてきたのか?【共産主義虐殺リスト】

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