【正史実像】劉備ってどんな人?2 黄巾討伐デビュー、熱く民想いの知事となる
- 2022.12.13
- 古代中国史
- どんな人? 人物紹介, 三国志(趣味雑談), 劉備
劉備のわかりやすい伝記、続きです。
前回の幼少期~遊学時代(青年期)まではこちら。
Contents
劉備が豪商から出資を受けた理由
劉備は豪商から出資を受けて出兵し、黄巾乱で活躍したことで世の中に出ました。
このあたりの経緯もフィクションとはかなり違いますので、史実をご説明していきます。
豪商が劉備を発掘、出資
前回の後半に少し触れた話ですが中途半端でした。もう少し詳しく書き直します。
劉備は遊学中の青年時代、張世平(ちょう・せいへい)と蘇双(そ・そう)という冀州中山の豪商の目に留まり、多額の出資を受けました。
出資に至る詳しい経緯については史書に記されていません。
正史の『先主(劉備)伝』にはただ
見而異之、乃多与之金財。
〔現代語訳〕張世平と蘇双は劉備を見て「ただ者ではない」と感じ出資をした。
と記されているだけ。豪商がたまたま劉備に目を留めて出資したというだけの話です。
しかしフィクションで描かれているように、まさか道を歩いていて偶然出会った劉備へ惚れ込み、いきなり財産を与えたなどということはあり得ないでしょう。
前回書いたとおり劉備は涿郡で若者たちの人望を集め大変に目立っていたため、豪商たちの興味を惹いたのだと考えるのが自然。あるいは劉備がとりまとめていた若者集団が馬の護衛をすることになり、その仕事ぶりや態度を現実に見て気に入った…という想像もできます。
いずれにしろ豪商たちが「何となく」ではなく、もっと強い理由で劉備に資金を託したことは確かでしょう。
出資は古代なりの“民主主義”だった
張世平と蘇双が劉備に出資した強い理由とは具体的に、どういうものだったのでしょうか?
初心者の方にはちょっと難しい話かもしれませんが深堀りして考えてみましょう。
張・蘇らは商人なのですから相応の見返りがあることを計算していたはずです。ただしその「見返り」とは、現代の平和な国にいる我々が想像するような金儲けに限定した利益ではなく、「〇〇打倒」や「世直し」という義侠心に近い願望実現が根底にあったと考えるべきです。
実際、中華はいつの時代もこのような出資で世が動いてきました。自分の希望が実現することを願って支持する軍閥に私財を投じるわけです。そうでもしなければ生存すらできない世となる可能性がありますから、命懸けで投資するのが当たり前。日本でも近代では、幕末の志士たちがこの種の出資を受けていましたね(当時の日本の場合は外国勢力の出資で右往左往した不幸がありますけれども)。
これは制度が整っていない時代なりの民主主義で、現代民主国の我々が政党へ一票を投じたり寄付したりすることに近い行為だったと言えるでしょう。
黄巾乱が蛮行で全土を荒らしていた後漢末期においては、商人たちは黄巾賊打倒のための戦いを支持、支援していたのだと思います。
そもそも張・蘇が涿郡の近くへ馬を買いに来たのも、黄巾乱鎮圧の軍備を整えるためだったでしょう。同時にその馬を使った騎兵隊を託す若者も探していたのでは。そうだとすれば劉備は始めから具体的な目的のためにスカウトされたとも考えられます。彼らが劉備青年へ馬を託して出兵させたのは、商売と政治願望、一挙両得を叶える現実的な投資だったと言えますね。
劉備はその後も民間の絶大な人気を得て支持・支援を集めていったために、当初“弱小”であったにも関わらず曹操の大軍勢にすら対抗する勢力となっていきます。
つまり少し大胆な定義となりますが、劉備は始めから古代中華なりの民主主義で世に出て、民の力によって押し上げられたリーダーなのだと言うことができます。
黄巾乱討伐で大活躍! 位を得るが…
豪商からの出資金をもとに涿郡で義勇兵を集めた劉備。
劉備は、彼を慕う若い兵士たちを率いて黄巾討伐のために出兵しました。
(このとき集めた兵のなかに関羽と張飛もいたことは前回書いた通り)
なお戦場デビュー直後の劉備はフィクションのように「民衆出身の、どこの馬の骨とも分からぬ雑兵集団」扱いされていたわけではないと思います。
劉姓の備が「馬の骨」扱いされたとは考えにくいですし、スカウトに来た豪商の張・蘇も行政に繋がる知り合いを持っていたことでしょう。その一人が、デビュー間もない劉備が従軍することとなった校尉(こうい。軍事行政官)の鄒靖(すう・せい)だったのでは。あるいは始めから鄒靖の依頼で馬を買いに行き、そのついでに義勇兵のリーダーもスカウトし持ち帰ったのではという推測も可能でしょう。
いずれにせよ、劉備軍が鄒靖のもとで大いに功績を上げたことは史実です。
その功績によって、劉備は安喜県(あんきけん。現在の河北省定州市南東部)の尉(い。警察署長)に取り立てられています。
賄賂を拒絶し? 印綬を放棄
安喜県の尉という位を得た劉備ですが、さっそく手放すことになります。そのときのエピソードはフィクションでもお馴染みでしょう。
「黄巾賊の討伐で登用された者を再審査せよ」との詔勅(しょうちょく。皇帝からの命令)が降り、督郵(とくゆう。巡察官)が安喜県にも訪れました。劉備は会見を申し入れましたが、督郵は仮病をつかって会おうとしませんでした。
督郵が劉備と会おうとしなかった経緯として、
「督郵は賄賂を要求したが劉備が断ったので嫌がらせをした。さらに劉備を貶める虚偽の報告を上げ、地位を剥奪しようと謀った」
との裏話がフィクションで描かれます。実はそこまではっきりとした経緯が正史本文等に記されているわけではないのですが、事実その通りであった可能性は高いでしょう。
漢代末期には賄賂が横行しており、督郵の要求に応じなければ嘘の報告で貶められ役職を剥奪される等のことはよくあったと考えられます。このため当時の人には「書いていないけど察し※」で、伝わる話だったろうと思います。漢では下級役人に難癖をつけて賄賂を要求することが当たり前に行われていたなどと、正統な歴史書にはっきりとは書けませんからね。
※陳寿はこのように言いづらいことを故意に書かず、行間で人々に理解させる手法を採ることが多かったようです。特に漢王朝や晋を建てた司馬氏、太祖と崇める曹操についての都合の悪い事実は言葉を濁したり完全に省いたりしています。まだ三国時代が終わって間もない陳寿の生きた時代、誰もが知るおなじみの話も多かったのであえて書く必要がなく、「察し」的に伝わったのだとも考えられます。
「察し」とは Weblioより:
だから、陳寿が本文に書いていないことを根拠として「曹操が虐殺した事実は無かった」のように主張するのは大間違い。かなり頭の悪い主張だと言えます。
督郵が仮病を使って会わなかったことに怒った劉備は、部下たちを引き連れて宿舎に押し入りました。そして督郵を馬つなぎの木に縛り上げて印綬(いんじゅ。位を示す標章のこと)を彼の首にかけ、鞭で百回以上打った。殺すつもりで打っていたが督郵が泣いて命乞いをするので打つのをやめた、とのことです。劉備はそのまま職を棄て立ち去りました。
つまり賄賂の要求に腹を立てて位を投げ棄てたことになります。
この少々乱暴なエピソードは正史本文にも書かれているうえ、魏の史書にも記されているため事実あったことだと考えられます。フィクションでは張飛の暴走ということにして劉備は止める側に回っていますが、現実に部下を連れて押し入ったのは劉備だと私は思います…(やれやれ)。
ただ、督郵が泣いて命乞いしたので可哀そうになって打つのをやめたというところは、サイコパスな曹操との大きな違い。曹操なら泣き叫ぶ声を愉しみながら、長期の拷問の末に処刑しているところです。史書には「殺すつもりだった」と書かれていますが、たぶん最初から殺すつもりなどなかったのではと思います。
それでも暴力は良くないですね。乱暴な行いに眉を顰める人もいるでしょう。
またフィクションの品行方正、どこまでも温厚に描かれる劉備のイメージとはかなり違うので意外に思われる人が多いかも。
しかしどちらかと言えば、私のイメージする劉備はこちらです。このエピソードを知ったときは非常に「彼らしい」と感じて苦笑しました。
若い頃の記録に書かれているように、日ごろは温厚で心が広く滅多なことでは怒らなかった劉備ですが、義に反する行いを見かけるとカッと怒りを爆発させて行動に出ることがありました。瞬間湯沸かし器のような一面が劉備にはあり、そのせいで窮地に追いやられることもしばしばでした。
そんな熱い性格は確かに劉備の弱点だったと言えますが、逆にこの点こそ彼が多くの人に愛された所以、最大の魅力でもあったと思います。
劉備は曹操と正反対で、自分の我がままだけで怒ることはまずありませんでした。彼が怒りを爆発させるときは「決して許しておけない」という義に反する行いを見たとき。常に誰かのために怒る。あるいは天道・人道そのものに対する裏切りへ憤りを爆発させた。しかも身を挺して怒った。――そんな命懸けの義侠心を目の当たりにしたとき、人間として好きにならずにいられないでしょう。人間ならば。現実の劉備を知っても心が動かないのは、人間の心を失った者たち(たとえばあのカルト思想の信者とか)だけではないでしょうか?
この安喜県でのエピソードを劉備ではなく張飛や関羽たちの暴走ということにしてしまったフィクションは、劉備の個性を消し去り魅力も半減させてしまったと言えます。
近年の歴史修正学者による無理やりな「劉備貶め」は言語道断ですが、だからといって都合の悪い話はオブラートに包み、品行方正なキャラに作り替えればいいというものではありません。
現実に生きた人の息吹である、個性を反映させたエピソードをそのまま伝えていただきたいです。
安喜県出奔その後 流転の日々
安喜県で印綬を投げ捨てた後の劉備はしばらく流転の生活を送りました。しかしフィクションで描かれているほど底辺の浪人だったわけではなく、遠回りながらも少しずつ出世しています。
ふたたび黄巾討伐に応募した劉備軍は大いに活躍したようです。そのため下密県の丞(副知事)などの位を得ています。ただこの地位も長続きはせず、すぐに去ることになったと記されています。おそらく安喜県のときと同じように賄賂でも要求されたのでは。
次に高唐県の尉となり、県令(県知事)に昇進しました。ところがここでは黄巾軍に敗れてしまい、学友である公孫瓚(こうそん・さん)を頼って落ちのびています。
公孫瓚は劉備に別動隊の参謀の位を与え、袁紹(えん・しょう)からの攻撃を防ぐため青洲へ派遣。袁紹との戦いで数々の功績を上げたので、平原の県令となり、郡の相(郡知事)に昇進しました。
刺客も惚れた劉備の人徳
劉備が郡相となった平原で事件が起きます。
劉平(りゅう・へい)という平原の人物は日ごろから劉備を見下していました。劉備が相となったことで、そのバカにしていた相手に仕えることとなったわけです。我慢できなかった劉平は劉備を殺すために刺客を差し向けました。……
ところが劉備は訪れた者が刺客と気付かず、あるいは気付かない振りをしたのか、歓迎して手厚くもてなしました。
そんな劉備の懐深い人柄に感じ入った刺客は、「自分は刺客ですがあなたを殺せなくなった」とありのままを告白して立ち去ったといいます。
刺客までをも惚れさせる。劉備の人格的魅力を表す有名なエピソードです。
まるでフィクションのようですが、実は正史本文にも記されている話。やはり『魏書』にも記されていることから実話の可能性が高いと言えます。当時から有名だった話なのでしょう。
民想いの劉備 後の英雄の片鱗
平原にいたときのエピソードでもう一つ、いかにも劉備らしいという話が残っています。
『正史三国志英傑伝-蜀志』(徳間書店)より訳文をそのまま引用します。
このころ、人びとは飢饉に苦しみ、徒党を組んでは略奪を働いた。劉備は、外からの暴徒の侵入を防ぐとともに、内政面では財政を豊かにして人びとに恩恵を与えた。身分の低い士人でも、劉備はかならず同じ卓に座り、同じ器で食べた。相手をえり好みしなかったため、多くの人が劉備を慕った。
これぞ劉備! という人格の本質が写し取られたエピソード。
しかもこれは蜀にとって敵国であった魏のための史書、『魏書』に記された記録。アンチがいくら「蜀漢正統論者ガーガー! 作り話ダー!」と叫んだとしても実話の可能性が非常に高い話です。
後に中華全土の民から圧倒的な人気を得た“英雄”の片鱗は、既にデビュー当時から表れていたと言えるでしょう。
筆者より
更新が遅くなって申し訳ありませんでした。
劉備の伝記は手を抜けず長くなってしまっています。
全く終わる気がしませんが……3へ続きます。
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