【正史実像】劉備ってどんな人?1 地元で超モテ!目立つ若者だった遊学時代

【正史実像】劉備ってどんな人?1 地元で超モテ!目立つ若者だった遊学時代

リクエストにお応えして劉備の伝記を上げていきます。

「筆者の見解を通した劉備の伝記が見たい」とのことでしたので、個人的なイメージを多めに書くつもりです。ただあくまでも記録準拠の内容です。『正史・裴松之注』から史実エピソードを引用していきます。

(書き始めたら長くなってしまいました。数回に分けることとします。まずは幼少期~遊学時代まで)

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前置き…フィクションとアンチが消してしまった劉備の実像

よく知られている通り、劉備(りゅう・び)は『三国志(三國演義)』という古典物語の主人公であり、かつて蜀漢※の皇帝として実在した人物です。

※「蜀漢」という呼び方について
劉備は漢王朝を継承していたため、当時としてはこの呼び方は正当ではありません。しかし現代においては後漢と区別し、また他の時代の「蜀」と呼ばれた国とも分ける必要があるため、当ブログも便宜上「蜀漢」と呼ぶことにしています。
なお「蜀漢」の読み方は、日本語の音読みなら正しくは「しょくかん」だと思うのですが、「しょっかん」と呼んでいるマニアさんが多い気がします。そのほうが自然で言いやすいからでしょうか。

フィクションで劉備は少し優柔不断ながら品行方正で人徳のある英雄として描かれ、長いこと東アジアの人々に愛されてきました。

ところがそんな劉備について近年、『三国志』のストーリーを反転させた「史実の劉備は極悪人!」という主張が声高に叫ばれています。ネット書き込みでも学者が書いた新書でも「史実の劉備は極悪人」との宣伝がなされ、憎悪の声で溢れ返っているのですが、はたしてそれは本当の劉備像なのでしょうか?

答えは否です。

――実は「史実劉備は極悪人」との話は真っ赤な嘘。今までの劉備のイメージを反転させ、極悪人としておとしめるために宣伝されている歪められた歴史解釈です。

【初めてご来訪の方へ】どうしてこんな状況となっているのか? 詳細は他記事にあります。ご案内:

三国志ジャンルの捏造記事について +蜀ファンへメッセージ【拡散希望】

このような背景事情により、現在ではネットを検索しても書籍でも、劉備を含めた三国志人物については「嘘八百」のねつ造史にしか遭遇できないはずです。

 

かと言って、かつてフィクションで語られていた品行方正な劉備も“実像”とは言い難いものでした。

私が眺めたところ劉備を正しく描いた三国志フィクションは日本と中国併せて一つもありません。もちろん解説書でも劉備の実像を紹介したものは希少。唯一近いなと思ったのは守屋淳氏の記事くらいです。

まるで古典の『演義』フィクションと、アンチの“嘘八百”が両極で協力し合い、実在した劉備という人の姿を打ち消しているようです。

これでは、三国志初心者の方が「本当の劉備が分からない!」と悩まれるのも無理はありません。

 

この記事では三国時代について史実しか馴染みのない筆者が劉備の実像を解説します。

→筆者の三国志知識について

『演義』系フィクションの影響も、アンチの主張にも影響を受けていない史実視点からのお話ができます。

もちろん筆者も強い個人的イメージを持つため、万人にとって「正しい劉備像」とは言えないでしょう。しかし史実に基づいた一種の真実ではあるだろうと思います。フィクションVSアンチではない、このような視点もあるのだということでご参考になれば幸いです。

基本的なこと。劉備は何をした人物なのか? 時代背景など

当記事を読まれている方は少なくとも、『三国志』のフィクションを読むなどして彼の生涯をご存知だと思います。ですので、劉備が生きた三国時代についての解説は省くことにします。

基本的な『三国志』を未読の方はこちらどうぞ。「三国時代とはどんな時代だったか?」簡単にご説明しています。

超簡単!さくっとわかる三国志あらすじ【現代日本人向け】

また、この時代の人の名前については下の記事をご参照ください。劉備で言えば、「劉」が姓、「備」が名、「玄徳(げんとく)」は成人してからつける字(あざな)ということになります。

三国志人物の名前、姓・名・字について。「諸葛亮孔明」は間違い

 

劉備の生まれと育ち。本当に貧しい筵(むしろ)売りだった?

では、まず劉備の出自からお話ししていきます。

ここは少し議論のあるところなので多めの文章で書きます。初心者の方は難しいと感じられたら、飛ばして後でお読みください。

 「中山靖王劉勝の末裔」は嘘!? 劉備の出自について

劉備は西暦で言えば161年、当時の元号では延熹(えんき)4年に涿(たく)郡涿県※に生まれました。

※劉備の生まれた地
涿郡涿県は現在の河北省保定市涿州市です。現在でこそ首都の北京に比較的近い都市ですが、当時は中心地であった「中原(ちゅうげん)」から遠いため田舎のイメージでした。ただし、優秀な人物を多く輩出した重要な土地とされ、フィクションで描かれているほど僻地扱いされていたわけではありません。

誕生日については春や秋など様々な伝説があるようですが、確からしい月日は伝わっていません。

確かであるのは、彼が漢の景帝の子であった中山靖王劉勝(ちゅうざんせいおう-りゅう・しょう)の末裔であるということです。

これは正史『先主(劉備)伝』冒頭にも掲載されている信ぴょう性の高い話。

なお『典略』という魏の記録書では、劉備は「後漢の初代皇帝の甥の血筋」だとされます。『典略』は伝聞を記した書物で細部の正確性には欠けるのですが、いずれにしろ劉備が漢の皇帝の血を引くという話において共通しています。ここから当時、劉備が皇族の血を引くとの話が事実として世間に知れ渡っていたことが読み取れます。

現在、例によって劉備をおとしめるための活動をしている集団が「劉備が漢の皇帝の血を引くという話は嘘ダー! 蜀漢正統論者ガーガー!!」と大声で叫んでいます。それこそ真っ赤な嘘ですから信じてはなりません。

そもそも、正史を編纂した陳寿は蜀を滅ぼした魏の後継である晋のもとでこの記録を書いています。現代風に言えば敵対国による歴史書なのですから、そこで劉備を持ち上げる目的で嘘を書くということは不可能だと理屈で分かるでしょう。いくら蜀の出身者であっても、敵国の長を過剰に賞賛した記録書を公開することは不可能です。

付け加えると、陳寿という人は「人物の出自について嘘は書かない」信条であったようです(歴史家としては当然のルールながら故意に嘘を書く者もいますね。現代では特に多い)。書かない代わりに「掲載しない」という手段を採ったと思われます。たとえば曹操など本当の出自が書けない人物については、あえて詳細な記述を省き嘘を書くことを避けている印象があります。と言うことは、陳寿が記した出自は確かな裏を取った事実だと推論できますね。

オマケの話。「劉備が先祖から受け継いだ宝剣」はフィクションです

吉川英治『三国志』など、日本のフィクションでは「劉備が先祖から受け継いだ宝剣」というものが登場するようです。

物語ではその剣が劉備の出自を示すたった一つの証拠とされています。そのわり途中で姿を消して行方不明になってしまうとか…(笑)。謎のアイテムです。

本家である中国古典『三國演義』にはそんな話はないそうで、いつからそんなアイテムが付け足されたのかフィクションに疎い私には分かりませんが。西洋ファンタジー『アーサー王』に何となく似ているので、おそらく近代に日本人によって付け足された話なのではないかと想像します。

現実を言えば、劉備の家が漢王室の血統であるということは系譜で証明できたわけですし、地元では周知の話だったことでしょう。

ちなみにこの項目のイメージ画像は「赤霄剣 (せきしょうけん)」と言って、劉備の遠い祖先である劉邦が持っていたとされる伝説の剣です。劉備の宝剣として小説家たちが想像したのはこんな剣だったのでは?

 

筵(むしろ)売りで生活したのは史実。ただし「庶民」とは言い難い

前項で書いたとおり、劉備が中山靖王の末裔であったことは確かな史実です。

しかし「皇族の末裔」という出自が、当時それほど絶大な力を持っていたわけではないとは言えます。前漢・後漢あわせて大勢の末裔がいたことは確か。その全ての人が恵まれた生活を送っていたかというと、そうでもない人のほうが多かったでしょう。

劉備の家も「先祖の劉貞(劉勝の子)が上納金を納めなかったので侯という位を失い、涿県に留まることを余儀なくされた」と正史に書かれています。おそらく他の劉氏に比べると贅沢のできない身分であったことでしょう。

それでも劉氏であり、皇族の末裔です。

家格が良いことは誰の目から見ても明らかでした。ですから、フィクションで描かれているように完全なる「庶民」として農村で紛れて暮らすのは難しかったはずです。

現に劉備の祖父の劉雄は県令(知事)となっているのですから、庶民と比べてしまえば遥かに有力であったと言えます。

劉備の家は、父親の劉弘を早くに亡くして母子家庭となってしまい、そのため極貧暮らしとなったのは史実です。それで母親とともに筵(むしろ)や草履(ぞうり)を編んで売り生活を立てなければならなかったわけですが、家格から見て「庶民」と呼ぶのは無理があるのではないでしょうか。

何故、劉備は「庶民出身」と強調されるのか

フィクションで劉備が「庶民出身」だったと強調されているのは、中華の物語において、庶民から身を起こして皇帝まで昇り詰めるという展開が好まれるからだと思います。

そのようなギャップのある立身出世物語は「〇〇ドリーム」と呼ばれ、世界共通で好まれるものです。しかし中華では具体的なモデルもあって、それが劉備の遠い祖先、漢王朝の高祖(こうそ)である劉邦(りゅう・ほう)です。

おそらく後漢当時の乱世において、人々は劉備に劉邦を投影し「漢王朝の高祖再来」と考えたのではないかと思います。

高祖の再来が世を立て直し漢王朝を復興する――そんな物語に当時の人々は熱狂し劉備を英雄として持ち上げました。そしてその熱狂はリアルタイムだけで終わらず、劉備の死後も延々と続き、しまいに『三國演義』という物語まで生み出し現在に至るのです。

ただ私が思うに、猜疑心が強いなど人格的にいろいろと問題の多かった劉邦よりも、徹底して民を愛し義を信じた劉備は遥かに優れた君主でした。

たしかに極貧から身を起こし皇帝となった劉備の人生には「中華ドリーム」と呼べるギャップがあります。しかし、そのギャップだけで物語の主人公になれるほど中華は甘くありません。

庶民出身であれ、皇室の出であれ、劉備はその個として奇跡の人物だったからこそ民間で称えられ物語の主人公となったのです。

つまり劉備の人格こそが時代のヒーローとして自らを押し上げ、永久に続く物語の主人公にさせたのだと言えます。同じ時代・同じシチュエーションであっても、他の人であったなら物語の主人公には決してなれなかったはずです。たとえば劉邦でも無理でした。(現に劉邦の民間伝承はいくつかあっても、英雄物語の主人公にはなっていない)

劉備が漢王室の血統であるという事実は、時代の中心に彼が存在するために必要な条件でした。しかし遠く現代から眺めれば、血統より重要なものはやはり劉備その人の個性だったと分かります。むしろ劉備という個性があの家系に生まれ、時代の中心となる条件を得たことが用意された奇跡――神々の計画であったと感じます。

少年の頃から何故か目立つ子だったという史実

劉備は子供の頃から「常人ではない」「大人物となる」と噂される、目立つ子供だったようです。そのことを裏付けるエピソードとして以下の話が正史『先主伝』本文に記されています。

庭にあった桑の木が貴人の車に見えた

これはフィクションの原作『演義』でも描かれている有名なエピソードではないでしょうか。

劉備の家には大きな桑の木があり、その木が皇帝などの乗る車の傘に見えたので

「この家からはいずれ位の高い人物が出るぞ」

と噂されていました。

また、劉備も幼い頃にその木を指して

「俺はいずれあのような傘がついた、貴人が乗る車に乗るだろう」

と言って親族に叱られたことがあったそうです。

以上の話は民間伝承ではなく正史本文に記されている逸話。どこまで本当かは分かりませんが、陳寿が記したということはそのような噂が有名な話として大陸全土に広まっていた事実はあったのでしょう。あるいは、劉備が幼い頃から目立つ子供だったという事実の裏付けエピソードとして挿入されたものかもしれません。

親族は備を「一族のなかで並外れている」と考えていた

正史によれば劉備が十五歳のとき、母は彼を盧植(ろ・しょく)※のもとへ遊学に出しました。

このときの学費は叔父の劉元起が出しています。

(…ということは貧しかったのは大黒柱を失った劉備の家庭だけで、一族全体としては極貧となるほど落ちぶれていなかったことが分かりますね)

劉元起の妻は親戚の子へ学費を仕送りすることに文句を言ったそうです。しかし劉元起は

「我が一族のなかでも備は並外れた何かを持っている。あれは常人ではない」

〔『先主伝』筆者訳〕

と言って聞き入れませんでした。劉備が少年の頃から地元で目立つ存在だったことが窺い知れるエピソードです。

※盧植について

盧植は太守(知事)を勤めた人で、博識で知られた儒学者・将軍・軍師です。この当時ちょうど涿郡で若者たちに学問を教えていました。劉備が彼に師事したのと同時期に公孫瓚(こうそん・さん)も師事し、劉備の学友となりました。

盧植は黄巾乱で張角の討伐にあたり大変活躍しましたが、査察官が要求するわいろを断ったため濡れ衣を着せられ、獄中につながれています。のちに許されて公職に就くものの、朝廷を支配し暴虐をふるった董卓(とう・たく)にも堂々と意見して殺されそうになりました。からくも難を逃れ、一時期隠棲していましたが、最終的には袁紹の軍師を勤めています。

優秀かつ人格も高潔な立派な方です。まさに中華の聖人らしい。フィクションではあまり活躍が描かれないようで残念です。

 

壮絶にモテた遊学時代! 男も女も惚れた地元のスター

フィクションの劉備は親孝行で地味なキャラクターで、二十代後半くらいまで母と筵を編んだりして質素な暮らしをしているようですが、史実の劉備は15歳で母親のもとを離れて街に出ています。

以降、十代後半~二十歳前後と見られる記録から浮かび上がるのは、「品行方正で素朴」なフィクションとは真逆の“イケメン過ぎる”劉備の実像です。

読書は嫌いだった…でも友達想いで人望を集める

アンチが喜ぶのであまり書きたくないのですが、正史本文に載る史実だから引用しますと

遊学中の劉備はあまり読書をせず、狩りや音楽、美衣服(流行のファッション)を好んだ。

〔『先主伝』筆者訳〕

とのことです。

つまり、最先端のファッションに身を包みライブに通って音楽を楽しむなどしていた、どちらかと言えば「街の遊び人」といった風情の青年だったことが分かります。

フィクションの品行方正で大人しい、素朴なキャラクターとはイメージが全く異なるのではないでしょうか?

読書は嫌いであまり勉強しなかったと記録されているのは痛いです。まあ、読書しようがしまいが、無意識的に道義を理解している人には関係ありませんが。

(個人的な余談。私はむしろ読書などしなくても本質的に地頭の良い人、人間としての道義を理解している劉備のような人のほうが好みです。読書するが地頭が悪いので本を鵜呑みにし、道義を持たないためにカルト思想にはまって平気で嘘をついたり虐殺を褒め称えたりしている自称インテリは最も嫌いですね)

劉備が読書嫌いだったという記録は、アンチの自称インテリたちが喜んで引き合いに出しバカにしていますが、彼らが崇拝している曹操はもっと悪くて「学業には見向きもせず勝手気ままに遊びほうけ、イキがっていた」と記録されています。もちろん彼らはその正史記録を嘘だと断言し無かったことにしていますが。都合の悪いことは無かったことにしてしまう、特殊な脳を持つ集団です。

若者たちが争って劉備と友人になりたがった

青年期の劉備が曹操と違っていたのは友人たちの評価です。

曹操は学問しないうえにイキって嘘ばかり吐いていたため嫌われおり、ほとんどの友人から相手にされていませんでしたが(正史『武帝紀』)、劉備は誰からも「大人物」として慕われていました。

正史にこう記録されています。

口数は少なく、腰が低くて相手を立て、感情をあらわにすることもない。男同士のつきあいを重んじたので、年下の連中はあらそってかれに交友を求めた。

〔『先主伝』 引用した翻訳文:『正史三国志英傑伝』徳間書店〕

劉備は口数が少なく落ち着いていて滅多に声を荒げることもなかった。

つまり遊び人のなかに交じっていたけれども、いわゆる「チャラい」タイプではなかったようです。

街中の若者たちが争って劉備と友人になりたがった、というエピソードはさすが凄いものだなあと思います。後の記録と比較してもここは全く誇張はないと思われ、若い頃から「男さえ惚れる男」であったことは確かのようです。

当時の劉備は若者集団を束ねている人望あるリーダーという雰囲気だったのでしょう。しかも、仲間をとことん信頼し助ける仁義篤いリーダー※です。

少しタイプは異なりますが、人望を集めるという意味では『東京卍リベンジャーズ』のマイキー(半グレになる前の)のような人物だったと表現すればイメージが伝わりやすいでしょうか?

※正史に記録された劉備の容姿は、「仁義に篤い」人柄を表現した喩え:

正史の『先主伝』には劉備の容姿について「手は膝まで届くほど長く、耳は自分で見えるほど大きかった」などという奇怪な表現で記されています。

普通に考えればそのような姿をしていたとは考えにくいので、これは人柄を表現した喩えであることが推測できます。

「手が長い=友人がどこにいても助けに駆けつける手を持つ」

「耳が大きい=多くの友人たちの相談を聴く耳を持つ」

という意味です。

陳寿は嘘を記したつもりはなく、実際に地元でそのような喩えが伝えられていたのだろうと思います。

女性にはモテたのか?

少し話は逸れますが、劉備の実像を現代人がイメージしやすくするため、女性人気について考えてみます。

フィクション『三國演義』の、素朴で大人しい劉備にはさほどモテるイメージもないでしょう。しかし上に書いた通り史実の劉備はフィクションとは逆の洒落た若者でした。

フィクションを鵜呑みにし、

「ダサい腰抜け野郎」

などと呼んで劉備を見下している皆さんのイメージは、根底から改めなければならないと言えます。

劉備の祖先である劉邦は壮絶に女性たちからモテたことで有名でした。日本の色男の象徴は光源氏ですが、中華一の色男とは劉邦のことになります。

いっぽう若い頃の劉備には女性関係の記録はありません。むしろ上の記録を見ると硬派で、男との交流しか持たなかったとされます。しかし血は争えないもの。美しい衣服に身を包み、音楽など風流な趣味を持ち、しかも街中の男たちからの尊敬を一身に集めている若者を女性たちが放っておいたとは考えにくいでしょう。

それはもう壮絶に女性からモテたのではないか…と推測されます。ただあまりにもモテ過ぎて劉備自身は女性を煙たがり、友人とばかり過ごすようになったのかもしれません。

豪商に見込まれ、出資を受ける

こうして遊学中の十代後半~二十代前半にかけて、涿郡の若者たちの中心人物となっていった劉備。

非常に目立って名が知られており、若者の間では有力と見られたために、涿郡を通りがかった馬商人の目に留まり資金援助を受けることになったのだと思われます。

それは今で言えば“投資”としての資金提供だったのでしょう。「乱世を治める可能性がある若者を援助したい」という義侠心からのボランティアであったことも否定しません。そうだとしてもいずれ自分に幸福が返ってくるだろう、との広い意味での投資だったはず。

フィクションで描かれるように、初対面で名も知らない若者に「なんとなく大人物っぽいから援助することにした」という漠然とした展開は不自然。現実の人間の行いには強い動機、「そうせずにはいられない」という必然が必ずあるものです。

関羽・張飛との出会い

フィクションでは筵売りの劉備が、関羽・張飛の二人と出会って意気投合し“桃園結義(桃園の誓い)”で義兄弟の契りを交わすところから始まります。

残念ながらこの桃園の誓いはフィクション。

ただし、史書にはこのように書かれています。

劉備は関羽と張飛の二人と同じ床で寝るなど、兄弟のように仲が良かった。それでも昼間、公の場では終日劉備の両側で護衛し、臣下として犬馬のように劉備に従い彼を立てた。

〔『関羽伝』筆者訳〕

この「兄弟のように仲が良い」との記録から義兄弟の契りを交わすフィクションが生まれたものと思います。実際、彼らの兄弟のごとき絆は強いものでした。

そんな三兄弟は現実において、いつ出会ったのか?

実は関羽と張飛については記録がとても少なく、来歴など詳しいことはほとんど分かっていないのです。それでも張飛は「涿郡出身」という記録があるため劉備と同郷であったと分かります。と言うことは、おそらく張飛は「争って劉備との交友を求めた年下の若者の一人」だったのではないかと推測されます。

いっぽう関羽は、経緯は不明ですが河東郡解県から涿郡へ逃れてきた人で、劉備が徒党を募っていたころ(これがいつのことなのか正確には分かりませんが)に会ったと記録されています。

以来、二人は死ぬまで劉備の親友であり兄弟であり臣下であり続けたのです。

なお私はいつも述べていますが、涿郡時代から劉備に従っていたのは関羽と張飛のたった二人だけということはあり得ないでしょう。名前の記されていない「兄弟」たちが他にも大勢いたと考えて然るべきです。関羽・張飛とは、地位を得ることを嫌い名も記されなかった彼ら古参の代表名でもあったと思います。

〔2へ続く〕

 

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