孔明が“文武両道”と評された理由と真実「戦争は戦場だけを指す言葉ではない」

孔明が“文武両道”と評された理由と真実「戦争は戦場だけを指す言葉ではない」

少し当ブログの主題に戻り三国時代の話をします。

歴史雑談ですが、現代でも必要と思われる重要な知識です。

 

 

諸葛亮は夷陵の戦い後に初めて軍事に携わった“文官”ではない

先日若い三国志ファンの方とお話ししていて

「孔明は夷陵の戦い後に初めて軍事に携わったイメージ。夷陵の戦いで(主要な)武官が世を去ってしまったので、仕方なく文官の孔明が出て行かざるを得なかった」

と仰っていたことに驚きました。

 

怒っているわけではないので笑、気にしないでください。

ただ時代は変わったものだなとジェネレーションギャップで驚いただけです。

 

原始フィクションから史実を超えて妄想の宇宙へ

演義フィクションは孔明が劉備陣営の作戦をたった一人きりで・しかも仕官デビュー初日から担っていた設定です。

ステレオタイプな“主君の耳元で囁く参謀”のイメージですよね。

劉備は孔明の操り人形として、一挙手一投足を孔明のアドバイスで動かす。それが『三国志』中盤のストーリーだったと思います。

(私はフィクションを通しで読んだことがないのですが、解説書や三国志ファンたちの話を聞いた限りでは)

 

二~三十年くらい前まではそのような演義フィクション設定を多くの三国志ファンが史実だと信じていました。

それはそれで無知蒙昧な原始時代だったと言えます。

当時「その設定はリアルではない。孔明は劉備存命中に戦場へ出ていないから、劉備の耳元で常に作戦を囁いていた設定はおかしい! 羽扇も振っていないし持っていない!」と主張して失笑を買っていたのは私くらいなもの。

しかし今はまた極端に正反対の嘘がばらまかれています。

原始フィクションのイメージから史実を遙かに通り越し、左翼妄想宇宙の果て(笑)へ遠ざかってしまいました。

 

孔子学院がばらまく反転カルト逆説

今の三国志ファンたちが言う

「孔明は文官。夷陵の戦い後に初めて軍事に携わった」

とはおそらく渡邉義浩を始めとする孔子学院※学者による逆説でしょう。それがネットで拡散されてマニアたちも信じているようです。

 

※孔子学院とは中国共産党が運営する洗脳教育機関です。マルクス主義の思想のもとで東洋文化破壊・歴史反転を推進しています:

孔子学院とは何か? 古典書き替えでベースから洗脳教育、スパイ養成機関

 

このフィクションから遠ざかった逆説に私の主張もいくらか反映されているとすれば誠に申し訳ない限り。

(歴史捏造家たちが検索で当時の私の記事へ辿り着き、パクって反転史のベースにした可能性があります)

 

当時の私はとにかく中国および日本で異常に高まり過ぎた孔明の評価を落としたい、まともな人間としての評価に近づけたいとの想いにかられていました。それで必死でネガティブキャンペーンを行ってしまったことを反省しています。まさか自分の主張が文化破壊のために悪用されるとは。カルト悪魔思想の存在は想定外でした。

 

史実孔明は「軍事の素人」だったのか?

史実を言えば「孔明が軍事に初めて携わったのは劉備の死後」と考えるのは誤りです。

出仕デビュー直後から唯一の軍師として劉備の一挙手一投足を操っていたわけではありませんが、さすがに劉備の死後と考えるのは遅過ぎます。

 

少なくとも入蜀直後に諸葛亮は劉備から軍師将軍(ぐんし・しょうぐん)の地位を賜っています。

これは軍師府の長官という意味。軍事戦略部門のトップに当たります。

陣営全体の長期戦略計画から戦闘計画、軍備・兵糧の調達、新兵の採用から訓練まで、軍事に関わる全ての業務を統括する立場にありました。

軍事の素人が務めるには難しい役職です。

 

したがって

「孔明は劉備が死ぬまで軍事に携わったことがなかった。だから孔明は軍事の素人だった」

と言うのは無理がある嘘です。

そのように吹聴している歴史マニアがいたらその人は戦争に関して無知か、歴史改変工作員だということになりますので信じないようご注意ください。

 

【参考】以前ネットで見つけたウマシカ工作員。筆者がくだけた言葉で嘲笑している点、ご容赦ください。現代人へ分かりやすく伝えるためです:

「諸葛亮は軍事に携わってなかった」(笑)…日本語で世界にバカをさらすのはやめてください

 

諸葛亮は「武官」でもあった

ここまで読めばもうお分かりでしょうが、孔明を「文官」とだけ呼ぶのは誤りです。

軍事部門の統括だったのですから当時の諸葛亮は「武官」に分けられます。現代の定義では軍人と呼ばれますね。

 

現代日本人は「武官」「軍人」と言えば戦場で馬などに乗って指揮する武将だけをイメージしがちです。若い頃の私もそうでした。

このような誤ったイメージは戦争のない平和な国に生まれ育った我々だけが持ち得たファンタジーと言えるでしょう。

 

現実に軍隊のある国では、戦場で戦う人たちだけが「軍人」と呼ばれるわけではありません。

現代アメリカを考えれば理解しやすいはず。軍事部門に勤める人々は身分に関わらず全員が「軍人」ということになります。陸海空+海兵・宇宙軍を統括する国防省ペンタゴンの上層部は戦場に出ず国内にいて戦略を構築し、軍部全体へ指揮を飛ばします。トップの地位に近ければ近いほど現場の戦場へ赴く機会が減るのが現実です。

古代でも規模の大きい軍隊を抱える国家・集団では同じでした。

もちろん古代は今のような通信手段が無かったので、“戦場の指揮”を国内で直接に行うことは難しかったと言えます。このため戦場へ赴く一人の将軍に全て戦略・指揮を委ねて派兵するのが基本ではありました。

孫子は「軍を預けた指揮官へ君主は口出しすべきではない(☆)」と言っていますし、現場の指揮官の判断は君命より優先されると言われています。

☆孫子「将の能にして君の御せざれば勝つ」等々。

これは君主が軍事の素人であるいっぽう将軍は軍事に精通しているはずだという前提から出た言葉なのだが、現場指揮官の判断が優先されたのは物理的に通信手段がないゆえの合理的な考えでもある。

 

ただ史記の頃から進み三国時代のように“軍師府”といった専門機関が設けられていた時代は、いったん戦略戦術のベースを軍師府が作成し現場へ託す手法がとられていました。

この場合も通信手段がなく現場とのスピード感のあるやり取りは不可能なので、戦況に応じた命令はできません。したがって軍師府は出征前に戦略計画を現場将軍へ託すだけなのではありますが、諸葛亮はかなり緻密な戦略を預けていたと思われます。

なおこの場合でも現場将軍(および現場参謀)には戦況に応じたフレキシブルな戦術が許されているものの、大筋の戦略に背くことは軍規違反となり得ます。

 

【関連記事】軍師の定義は時代ごとで微妙に異なります。三国時代の詳細な定義はこちら:

諸葛亮は何の仕事をしていた? 現実の「軍師」はイメージとかなり違う!

 

戦争は戦場だけを指す言葉ではない

この話で最も重要なことは、他の記事でも書いた通り「戦争は戦場だけを指す言葉ではない」ということです。

古代の武官は戦場にも国内にもいたわけで、彼らは日ごろの雑務も戦闘の一部と捉えていました。

それ故に日常からスパイによる策謀にも注意することができました。

 

軍事は分析と推測が物を言う分野です。

少ない情報から敵国の狙いを推測する、戦況を推測するのは当たり前。

そんな当然の推測を「陰謀論」などとけなす国民は本来存在してはならないのですよ。

 

日本人はNHK大河ドラマで刷り込まれた戦国時代のイメージのせいか、戦争とは戦場だけを表す言葉だと思い込んでいます。

だから日常のなかで戦争が忍び込むことは一切ないと信じています

だからこそ敵の策謀に気付いた人が声を上げたとき「陰謀論! 陰謀論!」という大合唱に惑わされ、注意喚起をした人のほうを「頭おかしい」と決めつけ口を塞いでしまうのですね。

 

この戦争に対する甘い認識、平和ボケの大きな勘違いがどれだけ危険な事態をもたらすか。侵略にさらされて風前の灯となった日本の現状を知る人には分かっていただけるのではないでしょうか。

 

 

「文武両道」の意味は日本語と違う! 正しい意味とは

さて現実の定義はともかく、一般的に孔明に対しては「文官」のイメージが非常に強いのは事実です。

 

本ばかり読んでいる大人しいタイプに「武」という漢字をイメージできないのは、当たり前と言えば当たり前。

 

前項でも触れた通り若い頃の筆者も戦場で戦う将軍だけを「武官」「軍人」と呼ぶのだと勘違いしていました。

それで筆者自身も孔明を文官と呼んでいた時期があります。――これは孔明をなるべく戦争から遠ざけたい、という個人的な願望がはたらいて「文官」と強調したかっただけかもしれませんが。

 

ただその「孔明は文官」というイメージも決して間違いではありませんのでご安心ください。

諸葛亮は人生の後半に宰相として国政(内政)を担っていたから、武官とも文官とも呼べるのです。

これが後世の人々に諸葛亮が「文武両道」と言われている理由です。

 

哀悼の詔の衝撃「文武両道にたけ…」

筆者が初めて文・武という言葉の意味を認識したきっかけは、諸葛亮が後世の人々に「文武両道」と評価されていたことでした。

 

代表的なのは後主劉禅による哀悼の詔。この言葉が私には衝撃でした。

ああ、君は文武両道にたけ(惟君体資文武)、世に絶する才能と誠実さを備えていた……
きみに丞相武郷侯の印綬を贈り、忠武侯と諡する。もし霊魂があるものなら、この恩寵を喜んで受け取ってもらいたい。哀しきかな、哀しきかな。

 

また正史『諸葛亮伝』、

「若い頃の彼は管仲・楽毅に自らをなぞらえていた」※

との記録は有名ですがこれも文武両道を表しています

 

※管仲は文官、楽毅は武官の最高峰の人物。記録者はこの二者のたとえで「文武両道」を表現した。これはおそらく当時多くの人々が口にした世評だと思われる。私が推測するに「本人が自分を管仲・楽毅になぞらえていた」とは世評からの後付けの話。諸葛亮はそんな自信満々なタイプではない。

 

古文の知識もなかった“THE現代日本人”の私には当初、この「諸葛亮は文武両道」評に違和感しかありませんでした。

「文武両道って出木杉くん※のような勉強できるけどスポーツも万能の人だけに使う言葉でしょ? 運動神経なさそうな孔明に使うの間違ってない?」

と思っていたのですね……お恥ずかしながら。

 

※出木杉英才:誰もが憧れる学業優秀・スポーツ万能な『ドラえもん』の登場人物


https://dic.pixiv.net/a/%E5%87%BA%E6%9C%A8%E6%9D%89

 

なんと学業優秀+スポーツ万能の意味で「文武両道」を使っているのは日本人だけ! とは知りませんでした。

 

いやすみません、現代中国語については分かりませんが。

古代においては

・文=政治

・武=軍事

という意味でした。

だから後世の諸葛亮への文武両道評は、「政治にも軍事にも長けていた」という意味で話されたわけです。

 

三国志ファンの皆さん、ご存知でしたか??

 

思えば原語を正しく日本語訳している三国志本は存在しないのではないでしょうか。

ゆえに三国時代の実態が正しく伝わっていません。

私も現代日本語の感覚しか持たなかったために、長年後主の言葉さえ正しく理解できなかったことを申し訳なく思います。

 

Translate »