始皇帝の出生の謎。政は漢民族ではなかった

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始皇帝を紹介する記事の補足として、えい政の出生についてお話ししておきます。

始皇帝、出生の秘密

始皇帝の出生には様々な説があります。

  1. 秦の国の公子だった嬴異人(えい・いじん)が趙国へ人質に取られていたとき、商人で彼の支援をしていた呂不韋(りょふい)の妾、趙姫(ちょうき)を譲り受けた。その後、異人と趙姫のあいだに生まれた嫡出子が政。
  2. 呂不韋は始めから秦王の権力を狙っていた。趙へ人質として送られて貧しい生活をしていた異人に目をつけ、様々な支援をしたうえ自分の妾だった趙姫を与えた。趙姫が異人の妃となったときすでに妊娠していたとされる。その子が政。つまり、嬴政は呂不韋の子。呂不韋は実父として政の後見人となり、秦の権力を得ることに成功する。

現代では始皇帝の名声を高めるために2の説を否定する学説※が多く提唱されているようです。

しかし昔から2が定説であり、中国で最も有名な歴史書『史記(しき)』にも記載があることから、やはり2の信憑性が高いのではないかと思われます。

※現代、「受胎から出生までの期間が合わないから呂不韋の子ではない。医学に照らしておかしい」とする説が声高に叫ばれていますが、現代の嫡出子推定を当てはめようとすることのほうがおかしいです。趙姫が異人のもとへ行った後に呂不韋との関係が無かったとは言い切れません。後々まで事実上の夫婦関係にあった呂不韋と趙姫の間柄では、一般的な道理は当てはまらないでしょう。

実父も、母も漢民族ではない

大商人だった呂不韋は西方民族だったと推測されています。またその妾であった趙姫も、もとは踊り子で娼婦だったといいますから、呂不韋の商売相手がペルシャ辺りから連れてきた遠方の異民族だった可能性があるでしょう。

したがって、政が呂不韋の子であってもなくても、彼はエキゾチックな容貌をした混血の子だったと思います。

【記録参考】『史記』には始皇帝の容貌について「鼻が高い、切れ長の目」と書かれていますので、やはり西方の血が入っていた可能性は非常に高いと言えます。

この想像を裏付けるように、始皇帝はペルシャやギリシャ文化の影響を強く受けた形跡があります。

たとえばそれまでの中華芸術と比べて急に写実的にグレードアップした兵馬俑は、ギリシャの彫刻家から指導されたものではないかという説が浮上しています。もしかしたらその彫刻家は、お父さんの呂不韋が連れてきたのかもしれませんね。参考:別URL『秦の始皇帝はどこの民族だったのか?

そもそも“漢民族”はまだ存在しない…

ここまでの話の時点で始皇帝を“漢民族”と定義する話が怪しくなります。

でも、そもそも根本的なことを言えば、秦の時代にはまだ”漢民族”と定義される民族などは存在しません。“漢民族”とは後に誕生する「漢」という国の住民を表すからです。

中原の民を“漢民族”と呼ぶのだとしても、政を漢民族と定義するのは難しい

そのように厳密に定義しなかったとして。

仮に、中原に住んでいた人々を“後の漢民族”として定義するのだとしても、西方に位置する秦は、今で言うチベット人やモンゴル人などの“異民族”が多く流入していた地域。秦の王族が中原民の濃い血統を保つ民族だったとはとうてい思えません。

参考:春秋時代の秦(最も西、緑色の地域)

まとめ

以上の話でお分かりの通り。

もしも純粋な民族主義のスタンスに立つなら、呂不韋や趙姫が何者であるかという話の遥か以前に、秦の王族の血統こそ疑わしいという話になってしまいます。

まあ、そんなことは我々にとってはどうっでもいいことですが。

ただ少なくとも、中国共産党が

「偉大なる始皇帝は我々漢民族の先祖である!」

誇るのは滑稽な誤りということになり、中国人をヘイトしている民族主義者たちが

「中国人=漢民族は古代から残虐だった! その証拠が始皇帝だ!!」

と主張するのも妄言に過ぎないということになります。

大嘘つきたちの話に惑わされないように、この歴史事実をぜひ覚えておきましょう。

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