諸葛亮は法正のことが嫌いだった? 本人に真相直撃しても信じない人には無駄
- 2021.08.16
- 古代中国史
- どんな人? 人物紹介, 三国志(趣味雑談)
雑談です。常体で書きます。
孔明は法正のことが嫌いだった?
こちらの削除事件で裏付けられるように、何がしかの思想による言論コントロールが浸透している知恵袋は昔から嫌いだった。
特に三国志ジャンルの回答では頭の悪い人たちによる幼稚な質問と、虐殺を称賛するバイト工作員の鬼畜な回答が多く、吐き気がするのであまり見ることができない。
時々ここで引用しているのは、普通の検索エンジンでたまたま出てきた良回答。そういうものは滅多にない。
ただ先日見た質問回答で、”te9********さん”の回答が良かったので少し追いかけて見ていた。
te9**さんという回答者のこと
この方は三国時代について素晴らしく正確な知識をお持ちだ。私も把握していなかった記録文が多く(たぶん正史で読んでいるのだが意識に残っていない)、しかも歪んだ眼鏡を通さず正しく書かれている通りに理解されているので驚いた。前記事で「文を妄信するな」などと書いて申し訳ない。ただ記録文に忠実なだけだな、この方は。
三国志ジャンルの人は「演義に洗脳されやがって。バーカバーカ」(笑)という幼稚園児たちからの攻撃を回避するためなのか、自分は冷静で客観的ですよ、とのポーズをとる癖がある。結果として変な学者の奇説を取り入れ過ぎて、色眼鏡をはずせなくなり、歪んだ解釈をするようになる。
だがte9**さんは正史と裴松之注の文だけから解釈しているらしい。そうではないとしても、現代の変な学者の説に全く洗脳されていないところは素晴らしいなと思った。
……回答者の評、失敬。前置きが長くなった。
このte9**さんの回答で気になったもの、次項目で引用。
諸葛亮と法正は仲が悪かったのですか? 質問回答
まずは質問。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12128779382
より引用:
マイゴウさん 2014/5/8 20:30
諸葛亮と方正は仲が悪かったのですか?
他の方にも突っ込まれているけど、「法正」さんのことだね。うん。
“法正”という名なのに法的安定性を全く気にされない法正さんね(苦笑)。←くだらないことだが、実はずっと気になっていた。「名は体を表さない」の究極例…。
むろん“法”は氏なので本人の個性を表してはいないのだけど。字の“孝直”でも違うという気がする。おそらくこれは親または親族が考えた字で、子供の頃からヤンチャだった彼に手を焼き、少しは孝行者で実直な性格になってくれと願って付けたのかもしれない。願い叶わず、笑。
良回答引用:
par********さん2014/5/8 21:27
孔明と法正ですね。
お互いを認めた二人だったと思います。
孔明が絶対に正しいわけでもなく、法正が絶対に正しいわけ
でもありませんから、二人でわざと違う意見を出し合ったという
一面が強かったと思います。法正は、蜀漢成立の最大の功労者で、漢中奪取の最大の功労者です。
曹操にすれば、孔明以上に法正だったはずです。
そこまで言うと、やっぱりお互いに妬んだり、遠ざけたりしたのではないかと思いがちですが、法正が亡くなるまで孔明は法正を丁重に扱っています。
そして「法正さえ居れば」と何度も嘆いたほどです。
ただ、法正はいかにも若くして世に出、妬みをかったとも考えられますし、勤勉過ぎて煙たがられる節もありましたね。
孔明は法正の才能を尊重し、大役も信頼して任せています。法正の死後、逆に孔明の考えに異を唱えるものがいないという現実こそ、法正の偉大さがよくわかります。よく言われることですが、44歳でなくなった法正が、もし、孔明と同じもう10年でも生きていれば、孔明も嘆いた通り、荊州を失うことなく、漢中を失うことなく、蜀魏決戦の場面でも互角の勝負が出来たと思えてなりません。
その通りだと思う。
諸葛亮は国内外全般の計画を策定する今で言う「国家戦略」担当であって、法正のような戦術を駆使する「現場参謀」がいないと何も遂行できない。
まして、相手を騙す奇策などの汚い手法に躊躇する諸葛亮。言い方は悪いが「汚れ役」を買って出たのが彼だったと思う。別に孔明が「汚れ役お願い」などと依頼したわけではないのだが。孔明がやろうとしないので、業を煮やして横から手を出すという感じ。
だから諸葛亮も助けになる人物として法正をとても頼りにしていた。はず。
よく言われている「孔明は法正を妬んでいた、憎んでいた」というワイドショー的な話は、その手のゴシップが好きな卑しい人たち同士のなかだけで愉しんで欲しい。気持ち悪い。
ただ「二人がプライベートでも仲の良い友達だったかどうかは微妙」と思われているのは正しいかもしれない。
この件についてte9**さんのお話。
te9********さん 2014/5/8 22:07
少なくとも公の場では諸葛亮は法正を称える発言をしています。 力量を高く評価しています。
でも内心どう思ってたのかはちょっと気になりますよね。
法正は劉備政権内で高い地位に就くと、以前から恨みのあった者たちに対して権力を乱用して私刑しまくりました。 中には死んだ人も・・・
諸葛亮に法正の横暴を止めるように言う人達がいたのですが「北の曹操 東(南とも)の孫権、内部には孫夫人の脅威があったのに大丈夫だったのは法孝直のおかげである」(ちょっと私訳ですが)と言って法正を罰するわけにもいきませんでした。
良心的な法家である(と個人的に思う)諸葛亮にとっては、権力を乱用して人を傷つける法正を内心良く思ってなかったと思いますね。
財産に目もくれず劉備や蜀漢のために身を捧げた諸葛亮が、法正みたいな人と進んで仲良くなりたい、と心の中で思ってたでしょうかね・・・
タイムマシンでもないと分かりっこないでしょうけど
>良心的な法家である(と個人的に思う)諸葛亮にとっては、権力を乱用して人を傷つける法正を内心良く思ってなかった
>財産に目もくれず劉備や蜀漢のために身を捧げた諸葛亮が、法正みたいな人と進んで仲良くなりたい、と心の中で思ってたでしょうかね・・
どうなんでしょうねえ。
(記録文に書かれていないのでここからは私のイメージだが)
「この人ちょっと苦手かも…」と思って法正とのプライベートの付き合いは避けていた気がするが、大嫌いというわけではなかったと思う。
私も現代で大人しいタイプだからよく分かる。アグレッシブな野心家は苦手。日常会話も噛み合わないので、プライベートではあまり仲良くなれない。でも嫌いというわけではない。
むしろ法正のほうが諸葛亮について、「アイツいけすかない! 俺ああいう細かい奴、すっげー嫌い!」と思っていたかもしれない。現に「諸葛亮は法律に厳し過ぎる」と嫌味を言っているし(これは諸葛亮が「自分勝手に刑罰降したらダメですよ」と説教したので怒って悪口を言ったのだと思う)。
同じ野心家でも曹操のように自己中心的で、私利私欲のために虐殺しまくったサイコパスだったら諸葛亮は本気で軽蔑し、一言も会話しなかったはず。まして公の場で称賛することなど絶対に無い。
法正はただの利己主義者ではなかった。彼のなかには、彼なりの道義があったはずだ。
劉備について行ったという事実だけでもそのことが証明できる。あの時代、野心家はみな曹操に降った。法正が道義のないただの野心家だったら、劉備について行かず曹操に降っていただろう。
諸葛亮が法正の私刑について処罰を強く進言しなかったのも、罰する根拠となる法律が無かったからというのが第一の理由だろうが、「法正さん、復讐しても仕方ないなあ」と思われる状況だった可能性もある。
おそらく法正の私刑の対象となった相手は相応の酷いことをしていたのだろう。
むろん私刑は法的安定性を破壊するから決してやってはいけないこと。だから、諸葛亮は法正をその地位からはずすようにと劉備に進言した。ただ事情を鑑みて、法正の内心を理解し、罰するまでのことではないと考えたのだと思う。今で言うところの「情状酌量による執行猶予」。※
この時の諸葛亮の内心は、「悪い人じゃないんだけど、困った人だな。まったく…どう対処しよう」と頭を抱えていた感じだろうな。嫌いとはかなり違う。
※根本的なことだが、この当時の諸葛亮には法正を罰する執行権が無いので劉備に進言する度合いについて「情状酌量」したという意味
タイムマシンでのインタビューも無駄という話
>タイムマシンでもないと分かりっこないでしょうけど
おそらく、本人に直接インタビューして
「私は考直※のこと嫌いではないですよ。向こうは私のことが嫌いみたいだけど(笑)。私は彼のこと、いつも凄いなって尊敬のまなざしで見てます」
と答えたとしても『大奥』ワイドショー的な目で『三国志』を見ている人たちは、「嘘つけ! 妬んで憎み合って、足引っ張り合ったに決まってる」と言うのでしょう。どうせ。
だからタイムマシンなどあって、本人に真相直撃できたとしても無駄だと思うね。
色眼鏡をかけてしまった人たちはもう話をしても無駄。「人と人が信頼し合うことなど絶対ない。全ての人間は憎しみ合って殺し合うもの」と思っている、低次元な自己を投影して歴史を眺めているだけ。救いようがない。
もし歴史の真相を知りたいと思う誠実な人がいるなら、行動を眺めるべきだ。行動は嘘がつけない。
諸葛亮が公の場で法正を褒めた、そして彼の処罰を強く進言しなかった。この現実行動にこそ本心が現れていると言えるだろう。
※呼び方について:現代日本の感覚で「法正さん」と記述していたが、気になる人もいるだろうから修正(現実でそのように呼んでいたわけではない。当たり前)。「考直」「孔明」と字で呼び合う関係だったかどうかは微妙だが、記録文では確か「法考直」と字で呼んでいたように書かれていたと思う。
【法正について関連記事】→法正について触れた項目
参考までに、現代の基礎法学の話:
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