劉備と諸葛亮は、いがみ合っていた!? 「君可自取(お前が政権を取れ)」遺言の真相

劉備と諸葛亮は、いがみ合っていた!? 「君可自取(お前が政権を取れ)」遺言の真相

〔2019/6/1執筆記事。本文常体。大幅に書き足して日付更新、上げ〕

ずっと遠慮していて書けなかったのだが、明日死んだら後悔するから書くことにした。嘘をばらまく者たちの犯罪が目に余るので。
この通り公開で書くのは捨て身であることの証だと分かってください。
誠心誠意、本当のこと(私が思う真相)を書きます。
拡散していただけると嬉しいです。

【ご注意】 中~上級者向け記事。この記事には私の個人的イメージが含まれます。後半に引用した書き込みで、一般歴史ファンの客観意見もぜひ参考にしてください。

 

「劉備は諸葛亮を信頼していなかった」との噂は、どこから出たか

昨今、三国志ジャンル界隈では
「劉備と諸葛亮の間に信愛などなく、お互い憎しみ合っていた敵同士だった。
信頼の証として伝わる劉備の遺言は、諸葛亮へ“裏切るなよ”と釘を刺すため。
最終的には“諸葛亮の評判を貶めて潰す”ことが目的の策略だった」
という説が喜ばれて拡散されているらしい。

まるで安い週刊誌の捏造ネタ。
私はこのようなことをする人たちの歪んだ思い込みや、論理を無視した狂信的な物言いが生理的に無理で吐き気を覚えてしまうのだが。

上の捏造話を吹聴する人は、どうも自分自身の汚い心を投影して語っているらしい。
「自分だったらこうする」
「自分が家族や友人へ抱く気持ちは猜疑心と憎しみだけだから、他の人もそうであって当然。人が人を信じるなんて絶対有り得ない」
という告白話をしている。
ということは「私の心は汚いです! 私の人生は孤独で虚しいです!」と全世界へ向けて叫んでいるようなものなのだけど、恥ずかしくないのだろうか……?

なお、日本においてこの説を最も声高に唱えているのは渡邉義浩という中国学者であるらしい。孔子学院の院長さん。

【参考】劉備と諸葛亮の人格否定説をばらまいている者たちとその正体※・目的

※つまり、そもそも“人間であることをやめた者”たちによる主張。彼らは地球上の「愛」や「友情」「信頼」を全て叩き潰し、人間から感情を奪って完全に「肉体の利益」だけを貪る世界を実現しようとしています。そのため中国で行われた文化大革命を始めとして、このように歴史さえも嘘で塗り替え、「人間同士が信頼を持つことは100%絶対に無いのだ」という教義を若者の脳に刷り込もうと励んでいるわけです。彼らの話を信じた者が進むのは地獄世界。騙されてはいけません。

現代三国志ファンの歪んだ歴史解釈

こちらが渡邉氏の論をコピーしたような説。参考のため引用しておく。

『遺言の背景にある劉備と諸葛亮の確執』https://sangokushirs.com/articles/589

劉備(玄徳)は身体を横へ向け諸葛亮(孔明)の手を取りながら「もし、私の息子が助けるに値する者ならばこれを助けよ。助けるに値せなんだら、君が代わりにこれを執れ。」と言いました。
諸葛亮(孔明)は落涙し、「これまで通り私は股肱の臣として忠義を尽くし、死をもって陛下の志の実現させます」と答えました。それを聞いた劉備(玄徳)は皇太子の劉禅(公嗣)とその兄弟に「私が死んだ後は、お前たち兄弟は孔明を父と思って仕えよ」と遺言し、ついに63年の波乱万丈な人生に幕を下ろしました。
……
ここまで全権を委任された諸葛亮(孔明)なら、その気になればいつでも劉禅(公嗣)を蹴落として取って代わることができたのではないでしょうか?
劉備(玄徳)は死の間際「息子が助けるに値しないならお前がなれ」と言ったです。劉禅(公嗣)が助ける価値のない人物であることは誰がどう見てもわかることだし、むしろ劉備(玄徳)の方から「お前がなれ」と言われているのだから自分が蜀の皇帝になってもなんの問題もないはずです。
しかし、諸葛亮(孔明)はそれをしませんでした。あくまで劉備(玄徳)との約束を守り、劉禅(公嗣)を助けました。
西暦234年の五丈原の戦いで最期を迎えながらもライバル関係だった司馬懿(仲達)を敵前逃亡させた「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」の由来となった話はすさまじい執念が伝わってきます。もちろんこれらの話は諸葛亮(孔明)の忠義を示す美談として語り継がれています。
それなのに後世の人々の評価はというと、劉備(玄徳)に忠義を尽くした家臣といえば圧倒的に関羽(雲長)と張飛(益徳)の両名です。明末期~清代の学者である王夫之(おうふうし)は、劉備(玄徳)の遺言を「絶対に言ってはならないもの」と評価し、さらに「このことから劉備(玄徳)は諸葛亮(孔明)を関羽(雲長)ほどには信頼していなかったことがわかる」と結論づけています。それは劉備(玄徳)の遺言は遠回しに諸葛亮(孔明)が皇帝に即位することを警戒して、逆にそれをさせまいと釘を刺しているという見方もできます。

諸葛亮(孔明)の忠義という名の皮を剥がしていくと、劉備(玄徳)と諸葛亮(孔明)の間には微妙な緊張関係が露呈します。……

>劉備(玄徳)の遺言は遠回しに諸葛亮(孔明)が皇帝に即位することを警戒して、逆にそれをさせまいと釘を刺しているという見方もできます。
>王夫之の考えを読んだときまるで雷に打たれたかのような衝撃を受けました。「なるほど…劉備(玄徳)の遺言は美談だが、こんな見方をする人もいたのか」と。

バカなのか?

ああ失礼。つい、現代語の悪癖が出た。

もう一度丁寧に言い直そう、あなた方は、事実を総合的に考えることがとてつもなく苦手な方々なのですか?

この説は「新説を出して目立ちたい」という承認欲求からの、厨二病の発症例だろう。
王夫之自身も本心から信じていたかどうか疑問だ。
(それなのに鵜呑みにして心から信じ込んでいる曹操ファンの次元の低さ)

上の説の決定的な欠陥は、「劉備の遺言」という一点のみに焦点を当てて他の事実を一切無視していることだ。
総合的思考の欠如、視野狭窄の極みでほとんど妄言となっている。さすが平均IQ底辺の集団

平均的な知能を持つ人なら少し考えれば誰でも分かる。
もし劉備が諸葛亮を警戒していたなら、権力を使ってクビにするなり降格させるなり、何とでもできただろう(笑)ということを。

まず大前提として諸葛亮を見出してから徹底的に引き上げ、あちこちで「こいつイイ奴。スゴイ奴」と宣伝して回り、丞相の地位を与えたのは劉備その人だろうに。

亮を警戒していたなら何故、彼の権力が揺るぎないものになるよう長年にわたり尽力したのだ?
劉備の態度はまるで新人アイドルをスターに育てようと粉骨砕身する芸能事務所社長のようだった。何故そんなことをした?

「劉備は諸葛亮に何か弱みを握られて脅迫されていたから」と、心の汚い人は妄言するのだろう。
日頃ご自分が友人の弱みを握って脅迫しているからそんな発想が出てくるのだと思うが、では劉備の弱みとは何だ?
具体的に彼の弱みを述べよ。
そして証拠を出せ。

言っておくがその「弱み」は劉備47歳の時に既に存在していなければならない。何故なら劉備がその年齢だった当時から諸葛亮は引きたてられたので。当時、全くの無名で無力だった諸葛亮が、全国区の英雄であった劉備のどんな弱みを握っていたというのだ。
しかもいったい、どうやって。
まさか「諸葛亮は天才だから個人情報ハッキングできた」とか「魔法を使った」と言うのだろうか。(笑)
『演義』をバカにしているくせに、『演義』フィクションに最も脳を犯されているのは自分たちのほうではないか。

何度も書いているが劉備は弱みを握られて脅迫され続けるような弱い性格タイプの人ではない。
惰弱に思える劉備のキャラクターは演義フィクションのもの。劉備が脅迫されて従うタイプと誤解しているのは、それこそ演義フィクションに洗脳されている証。

工作員以外の一般ファンの方々は、頼むから史実を見て欲しい。

劉備は史実上、怒りにまかせて使者を斬るようなこともしている。それだけ即断で動いた熱い人だ。
もし27歳の無名の若造に弱みを握られて脅迫されたら、劉備なら一瞬で斬り殺しているだろう。彼はそのような行いをする心の汚い人間が、地上で最も嫌いだったから。
裏付け史実: 彼は若い頃、おそらくワイロを要求してきたであろう上級役人を縛り付けて叩き、半殺しの目に遭わせている。これは私もどうかと思ったエピソードだが、間違いなく史実と思う。いかにも劉備らしい、他の史実と照らし合わせてもぶれない一貫した態度であるので。

仮に諸葛亮の性格が若い頃と激変して、信頼できなくなったとする。その場合、劉備なら、信頼できないと思った時点で諸葛亮の地位を奪い遠ざけていただろう。
「この男は信頼できないかもしれない」
などと思いながら、いつまでもグズグズと使い続ける優しいリーダーではない。

その点、「教育して、性格改善すれば良くなるかも」などと甘いことを考えて馬謖を使い続けた諸葛亮とは真逆のタイプなのだ。
「こいつダメ。要らない。使えない」
と悟ったときの劉備は冷酷にもなる。要らない者は黙って遠ざける。
代わりに優れていると思った者は絶大に信頼する。手放しで地位も与える。誰の目にも分かるような、あからさまな贔屓をする。

つまり、ある意味では諸葛亮よりも徹底した信賞必罰、と言うよりは良い意味での差別心がある人だった。
だから彼の信頼を得た家臣たちは感激し、決して裏切ることなく恩義に報いようと命も捧げた。
そうする価値のある稀有なリーダーでもあったからだが。

サルでも分かる、真相を裏付ける話

前も書いたように、諸葛亮は変わり者だったが劉備も上回る変わり者だった。
変わり者同士だったからこそ地上にて「一人きり巡り合った理解者」として手を取り合ったと言えるだろうか。

そんな変わり者の劉備は、子供のまま生きているように好悪の情を表すこと非常に極端だった。
上の項目で
「ある意味では諸葛亮よりも徹底した信賞必罰、と言うよりは良い意味での差別心がある人」
と書いたが、この差別とは「ヒイキしたり嫌悪したりが極端だった」という意味。

諸葛亮は「行い」に対して信賞必罰で、人の属性や僅かな能力の違いで差別しなかった。
劉備も同じく血統や属性など表面では差別しなかったが、「人そのもの」に対してはあからさまな好悪を表した。この点が諸葛亮との違い。「人」によって徹底的に態度を変え、待遇を変えた。

その好悪の基準は劉備以外、誰にも分からない。たぶん人柄を基準として差別していたのだと推測されるが、文字で書けるような明確な基準ではないから周囲の理解が得られるわけがない。
たとえば圧倒で贔屓された諸葛亮は同性の愛人疑惑を受けるわ、一身に嫉妬を浴びるわさんざんな目に遭う。地獄だ。
しかし劉備は全く悪びれない。自己の信念に基づき「好きな奴を贔屓してるだけ」なので、贔屓の結果として亮が殺されようと動じなかっただろう。

後世、今の私の目から見て劉備の差別の基準は間違っていなかったのだと理解した。1800年も残るアイドル集団を作り上げたのは彼の驚異的な「人を見抜く本能」による。おそらくは表面ではない人格の根本的な部分、霊のレベルまで感じ取って「人々と神々に愛される人物」を選ぶ超能力を持っていたのだと思う。

ちなみに劉備の態度は最初から最後まで一貫して変わらなかった。

以下、Togetterまとめ『劉備は諸葛亮に「劉禅に才能がなければ君が国を奪え」と言ったのか?』※成人向け広告に注意より引用。

偏見で語る三国志bot @biased3594
劉備:死に際に諸葛亮に「息子の才能がなかったら国を乗っ取ってくれよな」と遺言した。陳寿はこれを永遠の手本にしろと褒めるが明代の王夫之という学者は「こんな守れない命令は絶対出しちゃいけねえ『乱命』なんだよ」と謗っている。劉備が諸葛亮を本当には信頼していないことがここからわかると言う

王夫之くん、国語のテスト0点!
君は最後の一行だけ読んで、冒頭の文「水魚~」を読んでいないね?
長文読解の能力ゼロ、文脈理解力ゼロですよ。
この科目での偏差値はあなた、全国レベルで最下位確実でしょう。

王夫之(渡邉氏)の説を信じている人々も同様に、
「水魚の交わり」
という記録文を忘れてしまったのだろうか。
心が貧しいだけではなくて知力も相当に貧しいね。

冒頭を思い出して欲しい。
そもそも最初から、劉備は新参の諸葛亮について激しく贔屓をしていた。
出仕当初、劉備は諸葛亮と寝食をともにするほど“寵愛”したために(記録にはないが当然に)諸葛亮は古参の兵たちから嫉妬を受け命まで狙われている。
それなのにあろうことか劉備は、
「あいつは俺という魚にとって水のようなものだ(あいつは自分にとって、なくてはならないものだ)」
などと放言して火に油を注いだ。(…客観的に見てヒドイ)
諸葛亮がどうにか殺されずに済んだのは、亮が赤壁戦で使者(人質)となり古参兵たちの信頼を得たからだ。

当たり前だがこんな時代から、劉備が諸葛亮を「信頼しておらず」「水魚と呼んで貶めて牽制した」わけがない。
信頼していない相手をどう逆立ちすれば寵愛できるんだ。脅されて寝食をともにできるか?
まして出仕したてで何の力もない若造、信頼できないと思った時点で追い出せばいい。後年よりも遥かに容易だろう。

このエピソードからも分かる通り、劉備の態度は始めから病床で息を引き取るまで一貫している。
「君が王となれ!」
という遺言があまりにも中華の常識を逸脱していたために皆様ショックを受け、「そんなはずはない。自分の人生でそんな信頼関係はなかった。自分と違うから何かの間違いであるはず!」と否定したくなってしまうのだろうが、もっと冷静に全てを眺めて欲しい。

劉備はただ少人数のグループだった頃から蜀が建国されて以降まで、変わらぬ態度を貫いただけのことだ。
「君が王となれ」=「水魚発言」
と並べて見れば国語偏差値が全国最低の方、限りなく猿に近い読解力しかない方でも理解できるのでは?

※フィクションでは優柔不断なキャラクターになっている劉備だが、現実は自信家でブレない発言をするタイプだった。参照:

「劉備が一国一城の主になれたほんとうの理由」…劉備は自信家という話

 

そもそもが劉備にとって後先など関係ないのだ。
終始一貫、「今すべきことをする」。これだけ。
贔屓すべき相手を見つけたから贔屓するし、呉へ復讐すべきだと思ったから復讐する。(…やれやれ)

フィクションの控えめな善人キャラクターを史実だと思い込んでいる皆さん、何度も言うが目を覚まして史書を読んでください。
守屋氏が言う通り本当の劉備は自信過剰なタイプ。
こんなジャイアンから圧倒的に贔屓される側から見れば、幸福ではあるが災難でもある。

陛下……、そのヒイキは困ります

「災難」ということについて。

上のTogetter2ページ目より引用。
孫盛(東晋の史家)評の翻訳文、引用。明代の王夫之の前に小児病を発症したこんな人がいたのか。

そもそも道理に沿い正義に拠り、信頼と従順を身に着けて、はじめてよく主君を助け手柄を立て、大事業を成し遂げることができるのである。
諺に『碁打ちでも打つ手が決まらないようでは相手に勝てないものだ』というが、まして主君の才能の有無を判断して態度を変えるようでは、どうして隣国の強敵を征服し、四海の内を手中にすることができようか。劉備の諸葛亮に対する命令のデタラメさにはこれほどひどいものはない

笑……
「デタラメさにはこれほどひどいものはない」は正直、同意。思わず笑ってしまった。

「君可自取(お前が政権を奪って王となれ!)」
などと病床で言えば結果はどうなるか普通の人なら目に見えているのだが。
なにしろ上で書いた通り普通ではないから、劉備という人は。
まるで本心が歩いているようなもの。確信犯の「裸の王様」。常に言いたいことをその場で言うし、やりたいことをやる。
三顧礼も同様に、彼が普通ではないから行ったことだ。あんな行いが漢代の常識であるわけがない。

当時でも異常なことで白い目で見られたわけだから、あれが現代で行われたことだったら全く理解されずにツイッターで大炎上することだろう。
諸葛亮側から見れば、贔屓によるハラスメント、「ヒイハラ」などと言って訴えの対象になるかもしれないなあ。

ああ何故か、むしょうに腹が立ってきた……。笑
いや、これは同じ地獄を記憶している私だけの個人的な話。

細かい私見

おまけ。細かいことについて考えを述べていく。

諸葛亮を法正で抑え込んだ? 発想がオママゴト

最初に引用した記事より。

劉備(玄徳)が存命中だったころ、諸葛亮(孔明)は劉巴(りゅうは)という名士を尚書令に任命しました。劉備(玄徳)は劉巴を嫌っていたのでこれに反対していました。かつて劉巴が、劉備(玄徳)の臣下になることを拒否して隠居した過去があったことを根に持ってのことでした。しかし、劉巴の才能を高く買っていた諸葛亮(孔明)はこの人事を強行しました。
尚書令のポストにはかつて法正という参謀が任命されていました。法正は知略に明るかったが執念深く恨みがましい性格だったので、諸葛亮(孔明)とは馬が合いませんでした。諸葛亮(孔明)の発言力が強くなりすぎないように劉備(玄徳)が諸葛亮(孔明)を牽制するための人事を行ったものと考えられます。

法正のような恣意で法を運用するタイプはダメでしょう。どう考えても。
このことが問題となったので真逆のタイプ、恣意的な刑罰はせず法律に従う人を推薦しただけと思う。

>諸葛亮(孔明)の発言力が強くなりすぎないように劉備(玄徳)が諸葛亮(孔明)を牽制するための人事を行ったものと考えられます。

ここは噴いた。低次元過ぎて嗤うしかない。
法正は劉備のお気に入りだっただけで牽制目的とかではない。
発想がオママゴトだ。そんな幼稚園児のオママゴト気分で遊んでいるほど彼らは暇ではなかった。

…重複する話をカット。詳しくはこちらへ。

諸葛亮は法正のことが嫌いだった? 本人に真相直撃しても信じない人には無駄

 

北伐が失敗したのは劉備のせい?

以下、名前の明記無い文は上のTogetter、紫電P @sidenpさんのツイートより。

基本的にこの方の「なぜ蜀漢が天下を取れなかったか」という命題に対する回答は「劉備が悪いよ、劉備がー」に帰結する感があります。

これか。「北伐が失敗したのは劉備のせい」という説は。
嫉妬を受けた結果として失敗しているのだから、あながち間違ってはいないのだけど結果論に過ぎないね。未来だから言えること。

明の徐世溥は『諸葛亮の北伐が成功しなかったのは、劉備の遺言が原因だ。この一言で劉備が諸葛亮を疑っていたこと、元気な時には心の奥に隠していた警戒心が明らかになった。劉備は既に関張を失い、劉禅は暗愚で、諸葛亮は張良・陳平の才があり伊尹や周公旦のような地位がある。蜀が劉氏のものでなくなるかもしれない。それを疑って、本心のように見せかけて釘を刺したのだ、国は奪ってもいいから劉禅は殺すなと言ったに等しい』などと言っているが、論ずるに値しない

阿呆丸出しだね。(失礼。あまりにも阿呆らしく面倒でこの表現になった)
仰る通り論ずるに値しないこの説を、現代三国志マニアは喜んで吹聴している。痛い。

ところが劉備は、劉禅が補佐するに値しないなら国を奪え、と言い残した。この言葉が、劉禅の心に打ち込まれてしまったのだ。何かあれば諸葛亮はいつでも自分から国を奪ってしまうのだ…と疑いを持つ劉禅に対し、諸葛亮は自分の胸を割いて肺腑を示さない限り、疑惑を晴らせないのだ…
劉備自身の諸葛亮への疑惑はその最期まで続き、疑惑は劉禅にも継承された

いや、劉禅は諸葛亮を信頼していたと思う。

積極的な「信頼」と言うよりは漠然とした親代わりで、はじめから当たり前にそこにいる人という感じで、疑うことも頭に昇っていない。宦官たちに諸葛亮についての讒言は吹き込まれていただろうが記録を見ると本気にはしていなかったようだ。

ただ「孔明はいつも説教ばかり。口うるさいから、嫌い」とは思っていたかもしれない。
コメントの「劉禅は劉禅で超ノンポリ坊やだったことが伺えるので、信じていたとかいなかったというより、常に「今の状況がよくわかっていなかった」が正解なんじゃないかな。(伍長 @gotyou_Hさん)」が近いだろうか。痛いけど。

当たり前のように丸投げ。
彼にとっては幼い頃からそうだったから、仕方がない。
悪いのは王道教育できなかった諸葛亮。

劉禅は疑おうと思えば、諸葛亮をいくらでも疑えた。魏も当然、秦が廉頗を趙括に代えさせたように、反間の策を用いていたはずである。しかし劉禅が諸葛亮を信じきり、諸葛亮が賢者でいられたのも、劉禅自身の見識にもよるものだ」(=つまり遺言の件で疑念なんか持っていない)

これが正解だろうな。劉備の遺伝子を受け継いでいるのだから、賢く懐の深い人ではあったのだ。
後に蜀がなくなった後、故郷の歌を聴いても涙を流さずポカンとしていたというが、愚鈍を装ってやり過ごしたのだろうか。危険な人物と疑われないように。この処世術も賢さの証。
(このエピソードを知った時、私は彼の賢さを悟って泣いた)

諸葛亮は劉禅に『成都には桑八百株、やせた田畑が十五頃(約75ha=東京ドーム16個分)があり、家族の生活は余裕があります。その他に財産を作ったり、利益を得たいと思うことはありません。余った財産があり、陛下に背くことはありません』と言った
と言っている。この言い方は、讒言をひどく恐れる末端の小臣が、自分は悪くないと切々と訴えているかのような言い方だ。諸葛亮が苦しんでいたことを理解することができる。

は? 何言ってんだ?
事実を普通に答えただけだろう。隠し立てする必要もないことだから。

(この文書はむしろ虚勢なのである。諸葛亮の規準は多くの人より低かったので、あれでも「財産持ち」のつもりだった。上の文書は、何かと金品を賜りたがる若い皇帝に対して「自分はこれだけ財産持ち。充分だから必要ありません」と言っている)

以下、核心へ。

劉備の遺言、真相まとめ

最後に王夫之の説へ戻って気になる箇所引用(Togetterより)

>「こんな守れない命令は絶対出しちゃいけねえ『乱命』なんだよ」

そんなことないです。※可能か不可能かと言えば、可能だった。記事下の追記参照

ここの発言で劉備は本心の願いを言っていると思う。
むしろ病床だからこそ「本心を言わずに死ねるか」、というくらい本気の本心だったでしょう。
自分の命が尽きようとしているときに、どうして卑小な人が考えるような汚い策略を口から出せると思えるのか? まして劉備のような、本心だけで生ききったような偉大な人物が。
(誰かの悪口を言って足を引っ張ることしか考えていない人とは違うということ)

もしかしたら劉備は初めから諸葛亮に「君こそが王になれ!」と言いたかったのかもしれない。
でもその前に我が子へ気を遣ったのは、最後にぎりぎり出した親心だったと思う。

劉備は人並の「親心」より前に義に基づく本心のほうが強い人で、そこは血族への心よりも自分の信念のほうが先となるため我が子さえ蔑ろにしてしまいがち。
命尽きるときだから初めて家族に気を遣った、というほうが真相。

かつて曹操軍から逃げるとき民衆のなかへ妻子を入れ、妻が殺されてしまったという史実もこのことを裏付けているだろう。
子供さえ危険な目に遭わせる。
「息子より信頼に足る武将のほうが大事」と述べる(フィクションの?)人物像はあながち間違っていない。
家族から見たらあまり良い夫、良い父親ではなかったかなという気がする。そこだけごく僅かな瑕だ。

同じツイートより、

>劉備が諸葛亮を本当には信頼していないことがここからわかる

本当に、つくづく愚かで卑しい心の持ち主ですねえ。どこをどう捻じ曲げて解釈すれば「信頼していない」という読解になるのだろう。
自分が常に他人を信頼できず、他人からは奪うことだけ考えているからといって、他の全ての人も同じだと考えるのはサイコパスの可能性がある。
国語のテスト0点どころかマイナス点だな。精神病質の可能性あり。
サイコパスを反社会的行動に結びつかせないような、再教育プログラムを受ける必要があるかもしれない。
何らかの思想に洗脳されているのだとすれば、もはや手遅れのような気もするが……。

ここに私の言葉で再びはっきり保証しておくけど、『正史』『演義』で描かれた劉備と諸葛亮の信愛についてだけは間違いなく真実だ。信じていい。

異次元の話を抜きにして述べても、史実を通しで見たときの理論上、二人の信愛を真実だと考えるほうが矛盾がなくなる
矛盾を無視して珍妙な「新説」にしがみつくのは、自ら知能の低さ(と心の貧しさ)を証明していることになる。

劉備は変わり者だけど、誰よりもシンプルで分かりやすい思考で生きた人だった。
行い、発言、全てが次元の違う奇跡の人だったため、卑小な「常識人」にはとうてい理解できないというだけ。
でも、シンプルに生きている人にとっては彼ほど分かりやすい人物はいない。

諸葛亮も同じく、殺人的な多忙のうえに嫉妬の集中砲火を浴びて地獄を見て、密かに主人へ腹を立てていたような気もする。
しかしそれ以上の幸福があったわけだから、本気で怒ることはなかっただろう。

大変ではあっても上回る愛があり、信があった。
他の人では滅多に経験できない(少なくとも中華ではあれほどの信愛を受けたケースは諸葛亮以降になかったようだ)、稀有に純粋で恵まれた人生だったと言えるはず。

晩年は苦しくても自分で選んだ道。
主人に対して僅かも恨みなどなかっただろう。
『出師表』で書いた通り、ひたすら感謝しかなかったのだ。

補足

遺命の実行が可能か不可能かは「可能だった」と言える。何故なら当時の諸葛亮は国民から、「集団ヒステリー」に近い絶大な支持を受けていたため。だから仮に簒奪しても問題は大きくならなかっただろう。むしろ亮が権力を持ったほうが嫉妬での攻撃を抑えることができ、まともに国政を行うことができたのかもしれない。

引きで見れば劉備自身が長年をかけ、それだけの準備をしておいてくれたのだ。彼の目的は始めから諸葛亮をトップに据えた国を造ることだったのかもしれない※。もしかしたら劉備のほうは諸葛亮を第一子くらいの気持ちで育ててきたのだろうか。
しかし諸葛亮のほうの願いは劉備が皇帝となることであり、その子の国を守ることしかなかった。その気持ちが劉備にはよく分かっていたので、言っても無駄かという想いが出て先に「息子を支えてくれ」と言ったようにも思う。だから彼としてはめずらしく遠慮がちに迷いのある物言いとなったのか。もちろん、諸葛亮は初めから劉備が「お前に政権を譲り渡す」と言ってもバッサリ断ったと思うが。

高所から見ていたのは劉備のほうで、何もかも彼の言う通りにしていれば現実はうまくいったのだが、とにかく亮は言うことを聞かなかった。そこだけは亮の反省すべき点だ。結果として現実は残念な結末になってしまった。

いっぽう物語としてはこちらのほうが完璧だった。あたかも後世の人々のために物語が最初から編まれたように。諸葛亮が劉備の言うことを聞かなかったバカ息子であったが故に、こうして長年物語は残った。
どちらが良いのかと言えば、現実を生きた彼らにとっては前者だが、「メッセージを伝えるため」という真の目的から見れば後者だ。やはりこの運命は始めから決まっていたのだろうか。

※「賢く徳のある王が世を治めることが、民を救うことになる」という考えから夢を託す発想。たぶんお互いにお互いへ夢を見た。

【追加の知識】この「民のために優れた王を据える」という発想は古代中華の根本思想。禅譲も『書経』に見られる堯・舜に由来するが、劉備は古典を模倣する人ではない。後述するように模倣しただけの遺言なら問題となっていないし後世ここまで語り継がれることもなかっただろう。ただ、古典で自分の考えを強化した(正当性を与えた)ということはあったかもしれない。

 

知恵袋から良回答を引用

渡邉義浩ら孔子学院関係者への反論はネットから削除され続けています。

以下は冒頭で触れた「参照すべき一般ファンの客観意見」ですが、この知恵袋書き込みもいずれ削除されるか、検索で浮上しないよう操作される可能性があります。またはYahoo!がサービスを終了して消えてしまう可能性もあり。

このような恐れから、保存のためにここへ引用させていただきます。回答者の皆様ご容赦ください。

〔引用についての法的根拠〕著作権法第32条:公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。※引用の要件として筆者も少しコメントします

質問

引用はこちらのURLからです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12141697587

rik********さん 2015/2/8 15:45

渡邉義浩氏の著書に「劉備の孔明への遺言は、陳寿の言うごとく交誼の顕れではなく、孔明の帝位簒奪を警戒し、ああいっておいて逆に釘を刺したのである」との主張が、ほぼ実際の史実として書かれてあったのですが、
三国志にお詳しい方、この主張を妥当なものと思われますでしょうか?

私は三国志については、演義と陳寿の正史の主な人物伝を読んだ程度しか知らないのですが、三国志の白眉ともいうべき箇所に関する著者のこの見方に、首を傾げざるを得ませんでした。

私が変に思った根拠ですが、簒奪を警戒していたなら、劉備の言行にそうした本音が少しは伝わっているのが自然だと思うのですが、それが全く無いこと。逆に、彼らの交友を示す逸話や、わが子にあてて「自分亡き後は承相を父と思うように」だとか、孔明を持ち上げ頼るように促しているものばかり残っています。そして何より劉禅は実際に孔明を熱く信頼し頼りっきりでした。

こうした点から、著者の言うように確かに名士を巡る部下の登用に意見の食い違いはあったでしょうが、「忠義の点で劉備は孔明をそれほどは信頼しておらず簒奪に釘を刺した」などと見るのは、何やら歴史ミステリー染みているというか、行き過ぎていると思うのです。

また、著者が実際の孔明を知っていた陳寿の記述を否定し「故国を思い両者の交誼を美化した」としていることにも納得がいきませんでした。魏が正統とする記述をしなければならない制約のなかで陳寿があれだけ故国の人物を称えられたのは、単純に本当のことだったからだと思うのですが…。

しかしいろいろ言っても私は三国志についてあまり詳しくないので、詳しい方の間で著者の見解がどう思われているのか、ぜひ聞いてみたいと思った次第です。どうかよろしくお願い致します。

ベストアンサー:

漢晋春秋さん2015/2/9 0:38

渡邉義浩氏は先の回答にもある通り、自説をさも真実であるかのように吹聴する(…と書くとはなはだ失礼な物言いではありますが)ような面がありますのでね。話半分に受け止めておくのがいいと思いますよ。

氏の名士論は非常に優れた考察で、これといって的確な反論も出来ないのが辛いところですが、そもそも名士という言葉は豪族社会(士太夫層)から出てきた清流派知識人たちが魏晋から南北朝への過渡期に貴族化・世襲化していく過程で生まれる言葉なので、この言葉を用いて三國時代を語ることそのものに無理があったりします(笑)。

まあ、それはさておき。

「私(主君)の死後、跡取りがダメなようなら君(宰相)が国を取れ」っていう遺言は、春秋戦国時代辺りに先例があったように思うのですがね。私は先秦史に詳しくないので、具体的にどの事例かお示しできないのが心苦しいのですが(^_^;

諸葛亮が前出師表で記した「三顧」も、殷の湯王が宰相の伊尹を招聘する際の故事にならって、劉備を湯王、自身を伊尹になぞらえたのではないか…とする回答も過去にありましたし、三國時代当時あるいは裴松之の時代などでは基礎知識レベルだった歴史知識が現代の我々には一見して伝わらず見落とされている…という可能性は大いに考慮する必要があると思います。

そういう点を考慮するならば、渡邉氏の解釈は成り立たなくなると言ってよいのではないかと思いますね。

渡邉の説に「優れた考察」などあるわけないでしょう、始めから嘘の歴史を造る目的で考えたこじつけでしかないのだから。

ただ「そもそも名士という言葉は豪族社会(士太夫層)から出てきた清流派知識人たちが魏晋から南北朝への過渡期に貴族化・世襲化していく過程で生まれる言葉なので、この言葉を用いて三國時代を語ることそのものに無理があったり」という事実を的確に指摘しているのを見ると、嫌味で言われたのかなと思います。

補足しておくと、確かに「三顧」(無名下位の者に礼を尽くして訪問するという行動)という表現は知識人だった諸葛亮が劉備の行動を一言で喩えるために用いた言葉です。しかし「何度も訪問した」という事実が無かったわけではありませんし、自身を伊尹になぞらえて持ち上げるために使った表現でもありません。前後の文脈を読めば、「先帝は私ごとき卑しい者のために何度も訪問してくださった、伝説の君主に相当する素晴らしい方だった」と言いたかっただけだと分かるはずです。日本人、要文章読解力。

禅譲の故事も尭から舜の例が『書経』にありますが、劉備は古典をただ模倣したかったわけではないと思われます。もし故事を模倣した余興として述べただけの遺言なら、全土にあれほどの衝撃を与え語り継がれることもなかったでしょう。当時の常識を逸脱した“あり得ない”とされる本心だったからこそ混乱を招いたのだし、話題となったのです。

他の回答:

mot********さん 2015/2/9 15:07

渡邊氏の論は、名士ネットワークの考察、三国の政治経済の具体的な実像など、参考になる部分が、少なくないと思います。しかし、慎重に可能性の一つとして語るべきところまで、かなり強く断定的に語ってしまう、あまり良くないところも、あると思います。

他の方もおっしゃっていますが、劉備が、もし本当に警戒していたなら、制度を変えようとする動きを見せているなり、遺言にしても、孔明には普通に「劉禅を補佐してやってくれ」とはっきり言い、渡邊氏の説で孔明と競合しているという益州の名士に「孔明には気をつけろ」と言っておく、そうした通常の対応で釘を刺していたほうが、よっぽど有効だったと思います。

それなのに、なぜそういったことをせず、わざわざ、現に残っている遺言のような、回りくどい方法で、釘を刺したのか刺していないのか、分からない言い方をする必要があったのでしょう? 結果的に見ても、釘を刺すどころか、劉禅らの信任によって、孔明がやりやすいようになっています。

やはり、現実的に考えて、渡邊氏の論は、空想めいているところがあると思います。

>結果的に見ても、釘を刺すどころか、劉禅らの信任によって、孔明がやりやすいようになっています

その通りと思います。
自分の子供に後を継がせたい、家臣に権力を奪われたくないと思っている者はこのような危険を絶対に冒せません。
たとえば豊臣秀吉に劉備と同じような遺言をする勇気があったと思うでしょうか? あり得ません。
「お前が政権を執れ」などと遺言すれば、その通りになる確率が99%でしょう。

kou********さん カテゴリマスター 2015/2/8 22:11

私もそれはうがち過ぎた考えだと思いますね。

まあ、劉備の言葉を額面どおり受け取っていいかはまた別かもですけど。

私は、劉備がこう言う事で、全権を託した丞相・諸葛亮を動きやすくしたんじゃなか、と思います。
この時期、諸葛亮より古参な人もまだいましたし、魏延のようにクセのある人もいました。
中には、諸葛亮のことを良く思わないような連中もいたかもしれません。
そういう人々の口を封じるのが目的だったんじゃないか、と思いますね。

実際、劉禅は諸葛亮を否定するような人を処罰してますし、劉備の遺言と劉禅の信頼が独裁者となった諸葛亮の大きな後ろ盾になったのだと思います。
それを意識して、諸葛亮も度々、先帝は・・・と劉備の事を持ち出したりしていたんじゃないか、とも思いますし。

おっしゃるように、本気で諸葛亮を警戒していたのなら、本人にしょうもない事をいうより、丞相制を廃止して三公制にするとか、諸葛亮の権限を抑えるように考えるはずです。まあ、それも国情からやれない、警戒しつつも諸葛亮の才能に頼らざるを得ない、なんてことかもしれませんが・・・、どっちにしても、そんな遺言になんの拘束力もないですしね。

劉備の言葉は「額面通り」以上です。

本文で書いた通り劉備は本気で「お前が王となれ」と言っていたのですが、「諸葛亮を動きやすくした」かったのは事実でしょう。究極に思い通りできるのは禅譲を受けること。でも、諸葛亮にはそれはできなかった。

「それを意識して、諸葛亮も度々、先帝は・・・と劉備の事を持ち出したりしていたんじゃないか、とも思います」
この人も穿っていますね。
そんなことは全くありません。
(こういう穿った疑いを持つのは日本人だけだという気がします。本当に恥ずかしい)

何も裏などない、ただ人間として本心から“先帝”を敬慕していただけです。
何なら毎日・毎時間ごとに「先帝は」と持ち出して懐かしみたかったところ、周囲に遠慮して抑えていたくらいだったと思います。

タッチーさん 2015/2/8 18:53

私もあの人の三国志観は
ちょっと歪んでいるように思います。

>孔明の帝位簒奪を警戒し、
>ああいっておいて逆に釘を刺したのである

間もなく亡くなる人物が釘を刺したところで、
孔明に簒奪の野心があれば本当に実行しますよ。

実力も実権もあるんだから。
でも実際には自分の命を削ってまで
忠臣として動きましたよね。

本当に劉備が孔明の簒奪を警戒していたならば、
本人には何も言わず他の忠臣達に
孔明が簒奪に動く事を警戒するよう指示するなり
可能ならその対処法を伝えるなりした方が
遥かに効果的でしょう。

正史か演義のみかは忘れましたが
孔明が自分の死後に魏延が反乱を起こした際の
対処法を考え、予め密命や手紙を残しておいたように。

ちなみに私は劉備の遺言及び劉禅に宛てた手紙は
三国志指折りの名文だと思っています。

【返信コメント】タッチーさん 2015/2/9 12:42
私的に、本当に劉備と孔明の間に亀裂が生じていたり
或いは孔明が自分が劉備に警戒されていた事に気づいたら
北伐なんてやっていなかったと思うんですがね。

魏延のくだりはフィクションですね。
諸葛亮も、魏延の裏切りは考えていなかったし何も釘を刺したりなどしていません。

未来から「あの人は反乱を抑えるためこれこれの対処を考えた」などと作り話するのは簡単です。
中華ドラマでよくあるパターン、何の伏線も置いていないのに「あれは実は最初から計画していたんだ」と言ってしまう(笑)。渡邉義浩の話はそのレベル。さすが中国共産党員、どれほどチープで筋の通っていない嘘でも堂々とついて恥ずかしくないようです。

自分が死ぬような病に罹れば分かると思いますが、死ぬ人はそこまで先々のことまで考えて謀略を仕掛けるようなことはできません。する気も起きない。だって、もう自分は死んで地上を去るだけですからね。

地上は生きている人たちのための世界。死者がコントロールしても無意味。
だから、「後はお前たちに任せた」と遺言するのがせいぜいです。

フルボッコちゃんさん 2015/2/8 16:28

穿った見解ですよね。私も渡邊氏の著書は持ってますが、あくまで彼個人の主張に過ぎないと思いますよ。

この人は、自身の唱える名士論によって三国志の全てを解釈しようとする悪癖(?)があります。史料を突いて君主と名士の対立を見出したがるのも、その一環です。
参考文献に自分の著書ばかり列挙するような人ですから、彼の著書ばかり読んでいると考えが偏って洗脳されてしまいますよ。

一理あると思った部分だけ取り込んで、あとは読み流すくらいで良いと私は思います。

ただまあ、魏志や呉志と違って、蜀志は陳寿オリジナルのようなものですから、美化することは不可能ではないです。
諸葛亮を持ち上げることは、故国を持ち上げたい陳寿と、相対的に司馬懿も持ち上げたい晋の、利益が一致していますし。
晋にとっては、魏を美化される方が困る部分もありますし、制約も蜀志より魏志の方が多かったでしょう。特に魏における司馬氏の失態や凶行は多くが隠蔽されていることは、裴注で分かりますので。

「諸葛亮を持ち上げることは、故国を持ち上げたい陳寿と、相対的に司馬懿も持ち上げたい晋の、利益が一致」…ここだけ、ちょっと意味不明で筋が通っていない話ですね。

晋が持ち上げたかったのは魏であり、曹氏と司馬氏です。
「諸葛亮を持ち上げて相対的に司馬懿を持ち上げる」ためには、敵対した諸葛亮が軍事的に強かったという作り話をしなければならないはずですが…? 陳寿はそうするどころか「諸葛亮は戦争が苦手だった」と貶めていますよね。全く筋が通らない。

だいたい、『蜀志』のどこが「美化」に相当するのか分かりませんね。全体的にも諸葛亮をA級戦犯として貶めています。
ただ当時でも既に有名だった史実は歪めることができなかったので(当時の人たちの厳しい目がありましたから※)、そのまま書いただけという印象です。

※現代人は何故か全ての出来事が陳寿『三国志』が著されて以降に知れ渡ったのだと考えているが、それは愚かな空想。当時にも人間は存在していて、現代人よりも遥かに強力な情報伝達力で語り伝えていた。今の史実として伝わる話の大筋は、すでに当時からものすごく有名だったことをまず理解すべき。

現代日本人は諸葛亮のエピソード全て(たとえば劉備に忠誠心を持っていたことなど)を嘘だと思いたいために、史実さえも「美化」ということにして消し去りたいのでしょうか? 人として悲しい。外国人から「日本人は善悪の基準を自分のなかに持たない」と言われていますが、現代日本人からは“義”や“愛”といった人間性が消えてしまったのでしょうか?

それはともかく、フルボッコちゃんさんは渡邉について「参考文献に自分の著書ばかり列挙するような人ですから、彼の著書ばかり読んでいると考えが偏って洗脳されてしまいますよ」と書き込んでくださったことが有難かったです。

★皆さんが仰っている「自分の書籍を参考文献とする名士先生(笑)」についてはこちらの記事参照

「渡邉義浩氏の名士史観に違和感」知恵民の質問と回答

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