「三国時代、軍師・参謀ナンバーワンは誰?」上級マニアの意見に唸る

「三国時代、軍師・参謀ナンバーワンは誰?」上級マニアの意見に唸る

先日「軍師・参謀」に関する秀逸な書き込みを見つけ、唸っていました。

“唸る”とは、感動と畏怖が混ざった気持ちの表れ。本物マニアってやはり凄いなと思います。

〔他記事の補足のために上げる雑談です。重複する箇所が多くなります〕

【初学者の方はこちらへ】諸葛亮は何の仕事をしていた? 現実の「軍師」はイメージとかなり違う!

 

質問「三国志No.1の軍師・参謀はやはり諸葛亮なんでしょうか?」

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14235528384より引用

三国志No.1の軍師・参謀はやはり諸葛亮なんでしょうか?演技では頭1つ抜けたレベルで神がかってますが、実際の所どうなんでしょう
しかし演技は色々と創作が多いです
龐統や馬謖、郭嘉、荀彧、賈詡、周瑜、陸遜等など他にも沢山います
それでもやはり諸葛亮なんでしょうかね(少なくともトップクラスだとは思うが)
まあNo.1は決めにくいとは思いますが…

ID非公開さん 2020/12/8 11:46

アンチ孔明の反論を集めるためのヤラセ質問か。と疑ってしまう私は、非人間ばかり眺めて荒んでしまったのでしょうか。

案の定、「軍師」どころか「軍事」という日本語の意味さえも理解していない無知アンチたちが書き込みしていますね。お仕事マニュアルのコピペで、知ったかぶり。日本語で書くから日本の恥として世界に公開されてしまう。恥ずかしい。

知恵袋らしいお粗末な質問回答です。ところが今回は、異次元の回答者がいました。

私的ベストアンサー「軍師と参謀は別です」

この回答はBAに指定されていませんが大変秀逸です。

前にも引用させていただいた方の回答ですね。やはり上級マニアは他と比較して圧倒で知識が高いです。(現代知識はあまり無い方のようですが…仕方ないか)

引用させていただきますが、著作権法の要件を守るため私の意見も書いていきます。

漢晋春秋さん 2020/12/10 12:01の回答より:

「軍師」と⾔われる存在は、本来的には参謀とは別物です。⽇本ではこれを混同する⼈が非常に多いので注意が必要です。

概ねその通り。

上から目線で申し訳ないが、大変驚きました。

実は、日本人でこの区別ができている人はほぼいません。

何故なら日本では「軍師」は役職名としてではなく、一般用語として使われてきた歴史があるから。在野の相談役や折衝役も全て混ぜて「軍師」と呼ばれていたりしますので、日本史マニアは区別できなくても仕方がないのだと思います。または、日本史の場合は軍師と現場参謀を区別しないのが正解と言えるかもしれません。

いっぽうの中国では「軍師」は軍事戦略を担う職務名、もしくは役職名です。兵法を習得した軍事専門家を指す一般用語として使われなくもないですが、基本的に「軍師」の役職に就いた人が軍師と呼ばれています。

諸葛亮の場合も「軍師将軍」(軍師府のトップ)という役職に就いていたので「軍師」と呼ばれるわけです。冒頭にリンクした初学者向け記事参照。

三国志ファンでも「軍師=参謀・折衝役」と、日本史と同様の解釈をしている人がほとんどなのですが、さすが本物マニアの方は違いますね。

(ちなみに私が「軍師」について日本人一般の思い込みを持たないのは、他の方と学習のルートが全く異なるからです。実は自分の感覚で語っている面が強く、マニアさんの正確な知識によって裏付けられて驚くことがよくあります)

続きを引用:

参謀とは軍事において作戦を⽴案し軍隊の⾏動指針を策定し、戦いにおいて⾃軍を勝利へと導くのが役割です。これの代表的な⼈物が曹操配下の荀攸、郭嘉、賈詡、劉曄や、劉備配下の法正、袁紹配下の⽥豊などといった⼈々になります。

これに対し軍師とは、主君を補佐して勢⼒全体の⻑期的ビジョンを策定し、主君を天下⼈へと押し上げるNo.2とも⾔うべき重要なポジションに当たります。こちらの代表例が曹操配下の荀彧、劉備配下の諸葛亮、孫権配下の魯粛、袁紹配下の沮授といった⾯々です。

⾔うなれば参謀の役割は戦術、軍師の役割は戦略の担当であり、軍師が参謀を兼務することこそありますが参謀が軍師を兼ねることはありません。なお『三国志演義』(演技ではありません)において軍師とされている司⾺懿、周瑜、呂蒙、陸遜といった⾯々はいずれも将軍であって、軍師でも参謀でもありません。将軍ですから作戦の⽴案やその運⽤を⾏う事こそありますが、それを「軍師」とは呼びません。ただし陸遜は後に丞相となって国家の中⼼を担いましたので、その意味で軍師にやや近くなります。ただそれも、少なくとも呉が国家(王朝)として成⽴してからの話になりますね。

そうですね……だいたい正解かと思います。

日本で「参謀」と言ったときは国内で戦略策定するトップも含まれますから(例:太平洋戦争時の軍事中枢「参謀本部」等)、日本に関して問われた問題だったら不正解となりますが。

この方は戦略と戦術を分けたうえで、「戦術を担当するのが現場参謀」と定義していますね。一般人がイメージする「お殿様の耳に作戦を囁く参謀」はこちら現場参謀のほう。これは文句なしに正解。

「参謀とは軍事において作戦を⽴案し軍隊の⾏動指針を策定」これも一部正しいのですが、“軍事において”と広く括るのは誤りです。全体戦略と行動指針は軍師の職務になります。大枠の戦闘計画を策定~兵站を手配する、などと全ての戦争コーディネートは軍師府が行います。

現場参謀は国内などで軍師府が予め策定した指針に基づいて戦場で将軍を補佐する役割です。戦場に出たとき軍師府によってすでに大枠の戦略は立てられているのですが(劉備陣営・蜀、諸葛亮がいた頃の場合)、実際に軍隊をどう配置してどう動かすか・陣形などは現場参謀が考えて将軍にアドバイスします。緊急時の対処でもこの現場担当者が将軍を補佐します。劉備陣営で言えば、回答者も挙げている通り法正が典型的で優秀な現場参謀ですね。

なお、中国史全般で考えれば明白に上のように分かれていたわけではありません。

時代によって、または情勢によって、戦略担当・戦術担当が分けられていない場合もあります。三国時代でも初期の頃(後漢末の混乱時)は、軍師はおろか参謀もいない戦闘が多かったのではないでしょうか。将軍が一人で作戦立案、指揮する戦闘もあったと思います。特に劉備軍はそうでした。

時代を遡って『史記』に描かれた時代だと、さらに長期戦略担当と現場担当が明白に分かれていたケースは少なかったはずです。

三国時代の中期(曹・孫・劉が陣営として組織立ってきた頃)以降に限定して言うなら、漢晋春秋さんの答えで正解となるわけです。

軍師・参謀として誰がNo.1かというのは実際には決めるのが難しい話です。戦場での直接対決でもあるのなら分かりやすいですが、ほとんどの⾯々はそういう場⾯もなく、従って実績で⾒⽐べるしかありません。そして上述のとおり軍師と参謀は全く異なる役職ですので⽐べることすらできません。

軍師としてNo.1の候補に上がるのはやはり荀彧でしょう。曹操が、軍師の理想像として真っ先に名が上がる前漢の張良に例えた通り、荀彧は曹操を助けてその覇業を⽀え、三國の中でもっとも強⼤な魏王朝を創建するのに多⼤な功績がありました。それに劣らぬ実績を持つのが蜀漢の諸葛亮です。挙兵以来⻑期的ビジョンを持たずにロクな根拠地も持てなかった劉備を⽀え、わずか10年あまりで三國の⼀⽅の雄まで押し上げました。

三國時代においてはこの両者が軍師として双璧と⾔っていいでしょう。加えて⾔えば、ほぼ軍師専業であった荀彧と違って、諸葛亮は蜀漢の丞相であり北伐の総司令官であり、軍師の枠に留まらないマルチな活躍が目を引きます。

“軍師・参謀として誰がNo.1かというのは実際には決めるのが難しい話”

全くその通り。言ってくださって感謝。

定義無しに「軍師参謀で誰がNo.1か」といった議論すること自体、頭の悪い話です。

ゲーム脳の日本人は戦場だけで三国志を語ろうとする。つまり戦場だけで戦争が行われているのだと思い込んでおり、「戦争」「軍事」という日本語の意味や定義の基本的な知識すらない。ゲームの中だけの話だと自覚したうえでファンタジーに埋没するなら構わないが、日本を取り巻く現代現実の世界情勢についても同じように考えているから始末におえない。現実の「戦争」について幼稚園児のような話をネット上で語り合うのは恥さらしです。

ネットで世界に日本人の無知として大公開されているのが恥ずかしい。本当にやめていただきたいです。

たとえばサッカーの試合でゲバラの旗を掲げたり、ホロコーストをギャグに使うようなものと同等に低次元で恥ずかしいこと。日本人ってこんなことも知らないのか!こんなに頭悪いのか!と外国人には呆れられていますね。

“荀彧は曹操を助けてその覇業を⽀え、三國の中でもっとも強⼤な魏王朝を創建するのに多⼤な功績がありました”

その通りで、魏を強くした功績はほとんど荀彧にあり、曹操だけが優秀だったからとは言えません。曹操信者はそんな史実を完全無視して「曹操様が天才だったから魏がトップになった!」「曹操様が人格高い、類まれなる英雄だったから~(以下同文)!」などと崇拝しています。どうしてそこまで現実を無視できるのか? 教祖を信じてしまった狂信者は病的で気持ち悪いものです。

余談で言えば、最大の功績者だった荀彧にパワハラを続け、最後には無視など冷たくあしらって鬱病に追いやり自殺させたのは曹操です(一説によれば曹操が荀彧を処刑したとされる)。しかし信者はこんな明白な史実さえ「無かった」と言い張り、他のパワハラ・拷問・粛清も正当だったと主張して曹操様を称えています。拷問処刑にまでうっとりして称える妄信ぶりが気持ち悪過ぎる。

“諸葛亮は蜀漢の丞相であり北伐の総司令官であり、軍師の枠に留まらないマルチな活躍”

「マルチ」という表現は私の感覚と同じで嬉しく思いました。史実を正しく表現してくださって感謝。

中国史の全体をおぼろげにでも眺めることができるようになった昨今、諸葛亮は中国史で非常に特殊な役割を担ったのだと分かってきました。役割だけで言えば、劉邦配下における蕭何と張良を足したようなものだったようですね…能力では及ばなかったと思いますが。

どうして特殊なのかというと、中国では一人だけで蕭何と張良を足した役割を担うことはあり得ないからです。何故なら臣の一人に権力が集中すると必ず裏切って君主を殺す、または君主を傀儡にして権力を牛耳るのが中国史の常だったから。そのため「丞相」という地位も漢代には廃止されたのです。(三国時代になって曹操が権力を牛耳るため丞相を復活させたが、この時代限定となった)

マルチという諸葛亮の特殊な立場から分かることは、彼が優秀だったということではなく(担える程度の能力があったことは否定しませんが)、劉備が諸葛亮を全面的に信頼していたという稀有な史実です。中国史上、稀有だったのは劉備のほうだと裏付けられるでしょう。

つまり劉備あっての諸葛亮の特殊な立場だということ。だから軍師にしろ相談役にしろ、諸葛亮単独で「No.1」か否かを決めるのは不可能です。

 

魯粛や龐統、参謀として才能ある人物たち

以下、現場参謀も含めて詳細な回答が続きます。

全文引用したいところですが控えます。私自身、魏や呉の人物については感覚的に理解が浅いため多くを語ることができず、引用要件(本文を主とし引用文を従とする)を守ることができないためです。

ぜひ上のリンク先に行って読んでみてください。一読の価値あり。

最後に魯粛と龐統だけ少し述べてみましょうか。

軍師として挙げた中でやや異⾊と⾔えるのが魯粛です。彼は基本的には将軍であり、荀彧や諸葛亮とは⽑⾊が違うので⽐較ができません。ただ、将軍でありながらピンポイントで孫権に的確な助⾔を⾏い、それが孫権が最終的に呉を建国する原動⼒になったことは疑いありません。呉において他にそのような実績を持つ者はおらず、そのため呉で軍師と⾔えるのは唯⼀魯粛のみ、ということになります。

実質的に呉の内政から軍事面まで“国家戦略”に相当する役割を担ったのは、確かに魯粛だと言えるでしょう。軍事専門家というわけではなかったので(兵站から整える戦争コーディネートを専門家として担ったわけではないだろうという意味)、厳密な意味で「軍師」と呼ぶのは難しいのですが、確かに呉では魯粛が相談役として随一だったと言えます。

あと龐統に関してですが、彼は劉備配下として仕えた時期が短すぎて評価のしようがありません。軍を指揮して作戦を遂⾏した経験もあり、魯粛のようにピンポイントのアドバイスで劉備の覇業を助けた実績もありますが、総評としてどうだったかを論じるには材料が少なすぎます。もしかすると偉⼤な軍師であったかもしれず、あるいは優秀な将軍や参謀であったかも知れません。彼が益州攻略で戦死してしまったのが惜しまれます。

仰る通りですね。

短いながらも彼の功績や性格から述べますと、長期・広範な視点とともに事務方としての堅実さも求められる「軍師」の役職は難しかったかもしれません。しかし機を逃さず、的確に指示を出す機転力がありました。法正と互角かそれ以上の現場参謀となったことでしょう。将軍を務めることも可能だったでしょうね。

おそらく北伐のときにこの二人のどちらかが生きていたら、諸葛亮は彼等に戦闘指揮を任せていたかもしれない、または参謀として連れていったのは確実です。そうなればあれほど苦しむこともなかったのだろうと思います。

以上です。

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