【正史実像】劉備ってどんな人?3 「徐州牧になれ」「断る」…地獄の攻防
- 2023.03.19
- 古代中国史
- どんな人? 人物紹介, 三国志(初心者向け解説), 劉備
劉備の伝記、第3回です。
〔一度未完成のまま上げてしまいました。23/3/19 11時、加筆して更新しています〕
前回の記事:黄巾戦デビュー経緯~平原相となるまではこちら。
Contents
徐州牧を固辞する劉備、寄ってたかっての説得地獄は目に浮かぶよう…
公孫瓚のもとで袁紹と戦い、数々の功績をあげて「平原の郡相(知事)」へ昇進した劉備。
ちょうど同じころ曹操が徐(じょ)州を攻撃していました。有名な曹操による“徐州大虐殺”です。
この凄惨な民間人ジェノサイドを含む総攻撃によって、徐州は壊滅的なダメージを受けています。殺戮と飢餓とで徐州の地には死体が山と積まれました。
【参考】
徐州救援に駆け付けた劉備、小沛を本拠とする
曹操軍のジェノサイドにより危機に瀕していた徐州。
徐州牧(総督)の陶謙(とう・けん)は、斉に駐屯していた田楷(でん・かい)へ救援を求めました。
田楷は袁紹からの攻撃を防ぐため斉に駐屯していたものですが、ここに劉備軍もいたのです。かつて劉備は公孫瓚の指示で田楷のもとへ派遣され、ともに戦いました。その後も劉備は田楷に従い行動をともにしていたようです。
徐州からの救援要請があったときも、劉備は田楷について徐州へ駆けつけました。
その際の劉備軍はプロの兵士は千人ほどで、あとは異民族だったり、戦いのさなかに加わった飢民数千であったそうです。そこで陶謙は劉備へ四千人の兵士を与え戦闘を依頼しました。
以降しばらく劉備は陶謙の配下となり徐州に留まることになります。
陶謙は劉備を予(よ)州刺史に推挙し、小沛(しょうはい。現在の江蘇省徐州市沛県にあった城)を本拠地として与えました。
陶謙遺言「劉備に徐州を委ねたい」
それから間もなく陶謙は病に伏し、側近の麋竺(び・じく)を呼んで
「徐州をまかせられる者は劉備以外にない」
と述べ徐州牧(ぼく。州を統治する主※1)を劉備に継がせるよう遺言しました。
そこで麋竺は陶謙が没した後、正式な礼をもって劉備を徐州の牧として迎えようとしました。
ところが劉備はこれを固辞します――まさか本気で断られるとは思っていなかったのでしょう、徐州の重臣たちは狼狽し寄ってたかって劉備の説得にかかりました。
その必死な説得ぶりを見ると、劉備の固辞とはどうやら儀礼的な断る振り(※2)ではなく、頑なな拒絶といった取り付く島もない断り方だったようです。
※1 牧とは
漢代の「牧」「刺史」などの地位・役職は定まった職権がなく、時代によって変化しています。
中華は一度、秦の時代に中央集権制度となりましたが、それまで国の王であった各地の豪族からの反発が強く安定しませんでした。そのため漢代では封建制度と中央集権の折衷とし、各地の豪族が当主として治める緩やかな統治としました。
この“折衷”の度合いが曖昧で、時代によって、また土地によっても異なります。それで三国時代の理解が難しくなっていると思います。日本の戦国時代と同じく考えるとまた違いますのでご注意。
後漢末期の「牧」の正しい定義は、下リンク先サイト様の解説を参照してください。
※2 儀礼的な“断る振り”とは
古来、中華には禅譲(ぜんじょう)という風習がありました。これは国に優秀で誠実な家臣がいたとき、国家国民のために王はその者に位を譲るという行い。世襲制の弊害を断ち、ほんとうに私欲がなく誠実な政治家が国を治めるための風習だったのですが、形骸化して権力欲の強い者に悪用されることもありました。
禅譲された者は慎みを示すため、形式的に断る振りをすることとされています。あくまでも“振り”なので再度請われたら受けるのが普通。
近年の三国志解説書には、
「劉備は大変に欲の深い、極悪な野心家だった。このため徐州牧の地位は喉から手が出るほど欲しかった。陶謙の遺言を受けたときすぐに飛びつきたかったが、中華の風習にしたがって断る降りをした。いやらしい偽善野郎だ」
などと書かれていることが多いと思います。これは最近の自称歴史学者が、イデオロギーしか考えずに記録を無視して創作している証拠です。もしかしたら一度も史実を見たことがない可能性もあり。
正史本文を読めば、真逆の事情が分かります。
以下正史から引用します。原文から直接の筆者訳、超訳含む……
陳登(ちん・とう)曰く
まずは陶謙の寵臣だった陳登が馳せ参じて説得にあたりました。
「今、漢室は傾き天下は混乱しています。こんな時勢にこそ力を尽くして功を立てるべきではありませんか。徐州は百万戸の豊かな土地です、どうかこの地を引き受け、人々が安心して暮らせるよう治めてください」
儀礼で断った振りをしていただけなら、ここまで言われた際に引き受けるところ。
しかし先主(劉備)は
「袁術にでも頼めば? 名家の人だし名声あるし、ちょうどいいと思うよ」
とにべもなく断っています。
これに陳登は怒り心頭な様子で、
「袁術なんて冗談じゃない。あんな欲が深くて軽薄な男に乱世を治めることができるわけがないでしょう。あなたなら昔の英雄のように人民救済できる……(くどくど説得した後) これほど言っても引き受けてもらえないなら私はあなたを軽蔑しますぞッ!」
などと感情的な説得をし、しまいには脅迫的な言葉まで口にしたことが記録されてしまっています。
孔融(こう・ゆう)曰く
その後も、おそらく何人もの説得者が送られたが撃退させられたことが推測できます。
最後に国宝級の大物、あの孔子の末裔である孔融までもが劉備の説得に向かったようです。
孔融曰く、
「袁術などは自分のことしか考えない、死んだも同然の男。論外だから袁術など意に介するな。あなたに治めて欲しいと望んでいるのは民だぞ。民の声は、天の声だ。天が与えるものを受け取らなければ必ず後悔することになる。後悔しても遅い」
よく読めば分かるでしょうがこれも脅迫です。
“民や天に背いたらどうなるか分かってるな。後悔しても遅いぞ。ん、どうする?”
と。かなり強めの脅し方をしている。
劉備はこの孔融の言葉でついに徐州牧の地位を引き受けています。
何故急に引き受けることにしたのかは不明です。まさか脅迫に屈したわけではないでしょう。劉備の気持ちは記録に記されていないので謎のままです。著名人だった孔融の顔を立てたのかもしれませんし、あるいは「民」「天」を出されたので引き受けるしかなくなったのかもしれません。
私個人的には後者ではと考えます。劉備はあのような脅迫を毛ほども気にしませんが、民意・天意には従う人でした。
吉川『三国志』では、劉備が徐州牧を受けた件どのように描かれているか?
2023/5/3追記。
この箇所について日本で最も有名な歴史作家・吉川英治はどのように描いているか興味があり、小説『三国志』を読んでみました。
ありきたりなフィクションらしく劉備が表面的に辞退し、すぐに本音をあらわして地位へ飛びついたように描いているのでは? と想像していたのですが、なんと史実通りに壮絶な「地位を受けろ!」「断る!」攻防が描かれていて驚きました。小説内の劉備は史実よりも断り方が上品ながら(笑)、連日譲位を受けるように迫られているのに頑なに断り続ける様子は正確です。
さらに劉備が最終的に徐州牧の地位を受けた理由は「大勢の民が劉備のもとへ詰めかけ、民に求められたから」という設定。実際そういうことがあった可能性も高く、真実を突いていると感じました。
全体にフィクション要素の強い吉川『三国志』のうち、ここは数少ない史実らしい描写です。
「地位を受けろ!」「断る!」の応酬は目に浮かぶ
正史に書かれた説得の回数はご丁寧にも“三度”となっています。
麋竺・陳登・孔融の三人による三度の説得で受けたような、うまい印象操作が施されている。実際はもっと大勢の説得者が通っただろうと推測できます。
三度断るということは古来からの儀礼の範囲を逸脱しませんので、記録文をさらっと流し読みするだけの人なら「常識的な儀礼」と思い込むでしょう。漢代~晋代の人々なら、劉備が儀礼をわきまえた人だったと思って好印象を持ったはずです。
(欲が深いのに偽善で断った劉備は腹黒の嘘つき、などと考えるのは、心ない思想に侵された現代人だけ。自分が欲深いから他人も欲深いと反射的に思ってしまうのでしょう)
でもよく記録を読めば、かなり異常な応酬が行われていたことに気付けるはずです。
「断ったら軽蔑するぞ(悪い評判を流すぞ)」
「天に背いたこと後悔するなよ(今後の支援はないと思え)」
などという脅迫まで飛び出すのは異常事態。禅譲を本気で断られたために、徐州の重臣たちが焦っていた様子が伝わってきます。
この不自然な記録文から、劉備は儀礼ではなく本気で断っていたという状況を読み取らなければなりません。
地位を求めない劉備と、彼を担ぎたい人々の攻防は続く…
劉備という人は生まれつき、地位にこだわらない性質を持っていたようです。
もちろん黄巾討伐でデビューしたくらいなのですから、出世欲が全くなかったとは言いません。一旗揚げたいとの願望があったことは確かでしょう。
しかしあくまでも“一旗”です。
おそらく地元の仲間たちや故郷の母親を食べさせるだけの地位・役職を得たいと願っていただけで、天下を従わせるほどの権力を求めたわけではなかったはず。
その最大の証拠となるのが役職を得ても賄賂を断り、印綬を棄てて逃亡したという記録でしょう。しかも一度だけではなく何度も繰り返したことがうかがえます。
もしも現代の歴史学者が言うように「劉備は出世欲が強く、地位だけを求めた浅ましい人物だった」との話が本当であれば、印綬を棄てることなどするわけがありません。何があっても地位にしがみつくでしょう。たぶん喜んで賄賂をばらまき、役職を買い漁っていたと思います。
その前に、死に際の当主がそんな欲深い男を信頼して徐州を譲りたいなどと言うか? 文脈を読む能力がないので基本的な前提を無視し勝手な創作をする、そういうところにあの歴史修正主義者たちの低能さが表れています。最近の歴史学者たちの主張は、まるで九九ができない女の子の会計報告書のようです(嘘をつくための帳尻合わせの程度が低過ぎる)。
誰もが劉備に治めてほしいと願った。史実を信じるべき
前回までと重複するところもあるでしょうが大事なことだから書いておきます。
そもそもこの件の肝となっているのは、
“陶謙が会ったばかりの劉備を深く信頼して牧の地位を与えようとした”
という史実。
いくら徐州が危機に陥っているからといって、親族や古参の家臣をさしおき最近会ったばかりの人物へ譲るのは不可解ではないのでしょうか。しかも家臣たちまで寄ってたかって劉備に徐州を委ねようとしている。脅迫してまでも。
でも何故そこまで劉備が人の信頼を得るのか理解が及ばないので、皆さんスルーしていますね。
三国志フィクションでは劉備が人を惹きつけたことについて
「劉備は漢の高祖の末裔だから徳があった」
という謎の理由で片付けているし、アンチたちは
「ボケ老人の陶謙に劉備が何か吹き込んだか、脅迫したのだ。劉備は悪い奴だ」(笑)
という妄想を唱えて自分を納得させています。もちろんそんな都合の良い妄想を裏付ける史料は一切ありません。
ですが三国時代全体を見れば、劉備に魅了され心からの信頼を抱いた人間は一人や二人ではなかったし、彼に自分の地を治めてほしいと願った人々は数えきれないほどいたことが分かるでしょう。
よく劉備は“人たらし”と呼ばれていますが、そのようなレベルではありません。大陸全土を魅了し動かしたただけではなく、後世までも伝説を作り続けたのです。
何故そこまで劉備は人を惹きつけるのか? 実はこれが三国時代における最大のミステリーではと思います。
実際に本人と会わなければその理由を理解するのは無理。そして本人に会うことは叶いません。
だから提案なのですが、「劉備の人格が大勢の人々を惹きつけた」という史実を理由は考えずに信じてください。
論より証拠。
人は行いだけが真実。
この件で言えば、
「陶謙が劉備を信じて徐州を託した」「家臣も寄ってたかって劉備に治めてほしいと願った」
という実際の行動が史実であり“証拠”になります。
とにかく劉備は大陸全土を動かすほどの人間性を持っていた。これが三国時代の肝・核心です。この核心を信じることができなければ、三国時代のことは何一つ理解が不可能となるでしょう。
筆者感想。“らしさ”が不謹慎ながら嬉しかった
なお私の個人的なイメージで恐縮ですが、徐州時代の記録を読んだとき非常に劉備らしいと感じました。遠い過去から真実の人格が立ち上がってくるように感じられます。
何よりこの
人々:「地位を受けてください!」
劉備:「嫌だ。断る!」
という攻防はあまりにも劉備らしい話なので、不謹慎ながらつい笑ってしまいました。
当事者としては地獄の状況ですね。当主の遺言をすげなく断られたときの徐州重臣たちのショックはいかばかりか……。ご心労お察しします。しかも言うに事欠いて「袁術がいるじゃん」ですから。孔融は「あなたは袁術に気兼ねしているのか?」と嫌味を言っていますが、そうではなかったはず。
当時の徐州は曹操に狙われ危険な状況にありました。そんなやっかいな重荷を押し付けられたくない、と劉備が考えていたことはあるでしょう。しかしそれにしても富裕な国を譲られたのです、普通の人物であれば後先など考えずに飛びつくはず。
それなのにこの話を迷いなく固辞した史実に、権力欲の低い劉備の性格が映し出されているでしょう。
なお、人々と劉備の「地位を受けてくれ」「断る」の攻防はこの後も続きます。
劉備に惚れ込み従っていた家臣たちにとっては、主人のこの野心のなさ――当時としては「志が低い」と謗られることもあった――は少々災難だったとも言えます。
そんな彼に大志を芽生えさせたのは、やはり(昔の歴史家が言っていた通り)諸葛亮だったのかもしれません。出会いはまだ先となりますが。
付記
今回はここまで。短くてすみません。次回はなるべく早めに更新できるよう努めます。
アイキャッチ画像:徐州の雲龍湖 Huanokinhejo – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=63121742による
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