「曹操の悪評は三国演義のせい~!」印象操作を改善【Wikipedia】

有志の方から再びご報告いただきました。早速ですが削除を防ぐために取り急ぎ記事をUPします。

 

前回に引き続き、Wikipedia(ウィキペディア)日本版『曹操』の頁が改善されたそうです。

前回の改善:

Wikipedia「曹操」虐殺・粛清の史実が書き込まれました

改善された現時点のページ、アーカイブ

https://web.archive.org/web/20230608215910/https://ja.wikipedia.org/wiki/曹操

↓ 再編集後のアーカイブ(2023/6/10)

https://web.archive.org/web/20230609213215/https://ja.wikipedia.org/wiki/曹操

 

虐殺の史実についても前回より詳細な情報が書き込まれていますね。この箇所の改善をされたのは当方へ連絡をくださる有志の方とは違いますので、メッセージが届くかどうか分かりませんが心からお礼を申し上げます。歴史修正に抵抗する行動へ感謝致します。

思えば日本版ウィキペディアで曹操による虐殺の史実が書き込まれたのは前回が初めて。

あれは歴史修正への抵抗の第一歩でした。

私もウィキペディアへ書き込む習慣が無かったため、悪事を知っていながら長いこと放置して申し訳ございませんでした。

 

黙ってネットを眺めているだけでは何も変わりませんね。行動だけが未来を変えます

ネットで声を上げることも重要な「行動」。SNSへの投稿や拡散でもいいので、行動していただけると助かります。

もちろん当ブログの文章を使って構いません※。

どうか心ある皆さん、歴史修正という人類を踏みにじる犯罪の阻止にご協力ください。

※当ブログの文章は許諾なしに使って構いませんが、その代わりウィキペディア等に書き込む際は文章を客観的な表現へ整えてください。当ブログは一般向けに分かりやすく伝えるため、少々大胆で刺激的、主観的な表現を使っているところも多いです。整形せずにそのまま転載した場合、ウィキペディアの基準には合わない場合が多いでしょう。

 

改善箇所の保存

今回のウィキペディア改善箇所も、“敵方”の歴史修正主義者たちによって削除されやすいと考えられます。

言論弾圧と戦う際にはできるだけ外部でコピーし拡散することが必要です。

すでにアーカイブには今回の改善ページを保存済ですが、念のためスクショ撮影とPDF印刷し、ここにも記録保存しておきます。

 

冒頭解説の改善

冒頭の解説では今まで、

「我が曹操様は三国志演義のせいでイメージがお悪くなっていただけ~ ぜんぶフィクションのせい~ 史実はそうじゃないんだもん!」

という印象操作がされていたとのこと。有志の方が下記の通り、近代史に基づく改善文を書き込んでくださいました。

改善文:

民間人虐殺や捕虜虐殺、廷臣の大量粛清、皇帝を傀儡化し漢王朝を専横した等の史実によって古来悪評が高い。このため羅貫中の小説『三国志演義』でも敵役・悪役として設定されてきた。ただし近代では魯迅・毛沢東ら共産主義者によって曹操称揚が叫ばれ、中国共産党の指導のもと歴史評価の修正が推進された。日本でも吉川英治『三国志』、李學仁・王欣太『蒼天航路』等の創作が曹操を「美しい容姿、人情に篤い正義の英雄」と美化して描き、曹操のイメージ称揚に貢献した。近年では渡邊義浩を代表とする日本の歴史学者も曹操称揚の思想に基づく書籍を多数出版している。

画像引用(改善箇所は赤枠内):

 

 

後日の編集

この直後、他ユーザーにより下記の通り編集されています。

民間人虐殺や捕虜虐殺、廷臣の大量粛清、皇帝を傀儡化し漢王朝を専横した等の史実によって古来悪評が高く 羅貫中の小説『三国志演義』でも敵役・悪役として設定されてきた。

近現代では魯迅・毛沢東ら共産主義者による曹操称揚から始まり 渡邊義浩を代表とする日本の歴史学者の活動や 吉川英治『三国志』、李學仁・王欣太『蒼天航路』等の創作作品から曹操を英雄視する見方が主流である。

「内容は変えずに文章を分かりやすく修正した」とのことでしたが、“中国共産党の指導による歴史修正が推進された”という重要な史実をカットするのはイメージ操作との誤解を与えるでしょう。

また、“渡邉先生の活動によって曹操を英雄視する見方が主流となった”との表現は、ニュアンスとして「全ての三国志ファンが正当な史実を知ったために今では曹操を英雄視するようになった」という印象を与えます。これは正当な歴史議論が行われているとの誤解につながりますし、三国志ファンの実情にも反します。

このため、有志に連絡し次の文で再編集していただきました。

民間人虐殺や捕虜虐殺、廷臣の大量粛清、皇帝を傀儡化し漢王朝を専横した等の史実によって古来悪名が高く 羅貫中の小説『三国志演義』でも敵役・悪役として設定されてきた。

近現代では魯迅・毛沢東ら共産主義者により曹操称揚が提唱され、文化大革命後においては中国共産党の指導により歴史評価の修正が推進されている。 日本でも吉川英治『三国志』、李學仁・王欣太『蒼天航路』等の創作作品が容姿端麗な正義の人として描き、曹操の美化称揚に貢献した。後に渡邊義浩等を代表とする歴史学者も曹操称揚の主張を展開し、曹操を英雄視する見方を主流として宣伝している。

また編集が入るかもしれませんが、「中国共産党の指導」と「宣伝」という文言は削除されませんよう願います。

 

虐殺項目の改善

曹操が行った虐殺等については前回よりバージョンアップしましたね。詳細な解説が書き込まれています。

個人的には「曹操称揚が行われている空間はネットだけではない」と思うのですが…。三国志ファンの方はあえて近代の文化革命史(※後述)を無視し、ネット外で学者が行っている歴史修正犯罪を観ないようにされているのかな? しかし、ここまで詳細に書き込んでくださったので感謝しかありません。

今時点の文を引用します。

曹操は『三國演義』以前から沢山の残虐行為が歴史書に記載されている。

現代日本のネット空間では曹操の悪行 を真摯に受け止めず、悪行の否認、疑問視、軽視、正当化[注 24]Whataboutism的相対化[注 25]ニヒリズム的に開き直った言説[注 26]が盛り上がりがちである。陳寿三国志を筆頭とした幅広い歴史書に書かれた悪行全体ではなく「曹操は偏った歴史書や演義で悪く言われている」[注 27]という部分に焦点が当たりがちであり「曹操は不当に貶められている」という被害者意識が共有される傾向にある。

以下に曹操が犯した具体的殺戮について、正史三国志(陳寿三国志本文および裴松之注に引かれた史書)の記述を列挙する。

  • 呂伯奢一家の殺害。

曹操が董卓から逃走した際に匿おうとしてくれた呂伯奢と、彼の家人を皆殺しにした。殺害に至った経緯については複数の記述が存在する。

「呂伯奢の息子が馬を盗もうとしたため正当防衛で殺害した(王沈魏書』)」

「呂伯奢一家のもてなしを受けた後で、通報されたら困ると考え殺した(裴松之注『世語』)」

「呂伯奢の家人が食事の用意のために食器を並べていた音を武器の音と勘違いし、殺される前に殺した(孫盛『異同雑語』)」

  • 攻略した城の破壊、住民虐殺。

曹操は父親が徐州で殺されたことを怨み、193年、194年の二度にわたり徐州を襲撃した。

「曹操の軍によって徐州では男女数十万人が坑殺され、泗水は投げ込まれた死体で堰き止められ流れが止まった。泗水より南の慮・睢陵・夏丘の諸県を攻取し、皆なこれを屠城した。鶏も犬もいなくなり、廃墟になった」とある。(范曄後漢書』陶謙伝 『曹瞞伝』)

三国志武帝紀本文には「曹操軍が通り過ぎたところ多くの殺戮が行われた[42]。」と犠牲者数には触れないものの各所の虐殺を一括した表現による記載がある。

三国志荀彧伝、三国志孫策伝注、三国志笮融伝、三国志諸葛瑾伝、後漢書陶謙伝等からも徐州虐殺の存在、虐殺による影響が分かるようになっている。 尚、徐州崩壊の原因は飢餓によるもの、という記載は見当たらない。

上記徐州虐殺を筆頭に曹操軍は複数回に渡り「屠城」を行った。これは同時代で一番多い回数である。

  • 太祖攻圍數月、屠之(三国志呂布伝)
  • 屠彭城(三国志武帝紀)
徐州虐殺とは別件。呂布討伐時
  • 曹操攻屠鄴城(後漢書孔融伝)
水攻めで城を破壊した他、袁氏の婦女を犯した、と記載あり
  • 太祖征三郡烏丸、屠柳城(三国志公孫度伝)
  • 淵與諸將攻興國、屠之(三国志武帝紀)
  • 冬十月屠枹罕斬建(三国志武帝紀)
  • 公攻屠之(三国志武帝紀)
  • 仁屠宛斬音(三国志武帝紀)
反乱を起こした民を屠った。
曹瞞伝では反乱を起こした理由は圧政に耐えかねたため、とある
  • 官渡の戦いで捕虜虐殺

官渡の戦いの戦後処理で捕虜を生き埋めにした。

餘衆偽降、盡坑之(『三国志袁紹伝』)

裴松之注には「諸書にすべて、公(曹操)が穴埋めにした袁紹の軍勢は八万ないし、七万だと書かれている。」と記されている。”諸書にすべて”とあることから、当時は誰もが知る事実であった。裴松之自身はこの数について疑問を投げかけている。

また戦時中のことであるが 千余人の士卒を殺し、皆な鼻を削ぎ袁紹軍に誇示した(『曹瞞伝』)、と捕虜を殺害、暴力を加えた記述もある

  • 朝臣を大量に殺害

曹操が許に献帝を迎え権勢をふるうようになった頃の記録に、「宮廷の内外で曹操によって誅殺された者が多くいた」とあり、粛清された被害者の代表として議郎の趙彦の名が挙げられている。(『後漢書』伏皇后紀)。

  • 私怨で多数の人物を殺害

曹操は許で献帝を傀儡とし実権を得た後、かつて自分を批判した者など怨みがある人々を殺害した(孫盛『魏氏春秋』陳琳の檄文)。

辺譲は博学で曹操にも屈せず批判的な議論を続けたため、曹操の怒りを買って処刑された。(陳琳の激文)尚、後漢書辺譲伝では辺譲は建安年間に亡くなった、とある。

袁忠は沛国の相だったときに曹操が法を犯したので罰しようとし、曹操の怨みを買った。袁忠は遠方の交州へ亡命したが、曹操は使者を派遣して士燮へ依頼し、袁忠と一族を皆殺しにした。(『曹瞞伝』)

かつて曹操が若い頃に侮って彼を見下した桓邵も、同じく身の危険を感じて交州へ亡命していたが曹操の差し金により一族皆殺しとされた。(『曹瞞伝』)

  • 建安5年(西暦200年)の大処刑事件。

車騎将軍の董承は献帝の密勅を受け、曹操の暗殺計画を企てた(『三国志-先主伝』[43]。しかし事前に発覚し、計画に関係した者[注 28]は一族もろとも処刑された。このとき董承の娘は献帝の妃で妊娠していたが、彼女も捕えられ殺害された。

  • 皇后とその一族を殺害。

皇后の伏寿は、もと屯騎校尉であった父親の伏完へ「献帝は董承が殺されたので曹操を怨んでいる」旨の手紙を送っていた。しかし伏完は曹操排除を実行できないまま死んだ。この手紙が建安19年(214年)に発覚し、彼女は廃され殺された。兄弟ともども伏一族は処刑された(『三国志武帝紀』

他の歴史書にはより詳細な記載がある。

曹操は華歆に命じて兵を使って宮中に押し入った。皇后は二重壁の中に隠れたが、壁は壊されて引きずり出された。ちょうどそのとき郗慮と会っていた献帝は、髪を振り乱し裸足のまま連行されようとしている皇后が「陛下、またお会いできるでしょうか」と涙ながらに助けを求めたのに対し、「私でさえいつまで命があるかわからないのだ」と言って為す術なく眺めることしかできなかった。皇后はそのまま連れて行かれて殺され、彼女の一族も数百人が殺された(呉人『曹瞞伝』  後漢書伏皇后紀)

尚、伏寿と献帝の間には子が二人いたが、この子供たちも殺されている(『三国志先主伝』 後漢書伏皇后紀)。

  • 孔子の子孫である孔融を殺害

博学な学者として名声が高かった孔融を疎んじた曹操は「孔融が呉の使者に対し朝廷を誹謗する発言をした」と罪を被せ、孔融の妻子とともに処刑した(『後漢書』孔融伝)[注 29]

現代日本では癇癪を起こした曹操ではなく孔融を処刑含めて冷笑する言説が盛んであるが劉基が孫権に諫言した逸話のように、当時から不当処刑として扱われていた。

  • 名医華佗を拷問の末に処刑

華佗は曹操の頭痛を治療していたが 帰郷の念が募り、医書を取りに行くといって故郷に戻り、その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に戻って来ようとしなかった。妻の病気が偽りと判明したので、これに曹操が怒り華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまう(『三国志華佗伝』)。

  • 崔琰の投獄と自害命令。

崔琰は優れた体格と威厳ある容姿をしていたため、曹操の代わりとして使者の応対をしていた(『世説新語』)

後に崔琰は丁儀の讒言で投獄されたが、囚人となっても立派に見えた(辭色撓まず[44])ため曹操に疎まれ自害を命じられた(『三国志崔琰伝』)

崔琰は人望があり、「曹操に嫌われ殺害された人物のなかで、崔琰は最もその死を惜しまれ、未だに冤罪で殺されたと信じられている」と陳寿が評している。

楊脩は曹操が劉備との戦役中につぶやいた「鶏肋」という暗号を解いた人物だった。しかしその後に曹操が彼を処刑している。処刑の理由は諸説ある。

袁術の甥であったことから曹操に警戒されて処刑された説(『後漢書』)

曹操が嫌う曹植の味方をしたことで疎まれ処刑された説(『三国志曹植伝』、『典略』)

  • 優秀だった少年を危険視して殺害。

幼少時から名高かった周不疑を、曹操は始め息子の曹沖の側近にしようと考えていた。しかし曹沖が死亡した後、曹丕には扱いきれないだろうという理由で彼を危険視し殺した。享年17歳だった(『零陵先賢伝』)。

  • 愛人を撲殺。

曹操は昼寝をするときに寵愛している女性を傍にはべらせる習慣があった。あるとき「すぐに起こしてくれ」と言って女性の膝枕で寝込んだが、よく寝ていたために起こせなくなった女性がそのまま寝かせていた。しばらくした後に自分で目を覚ました曹操は激怒して、この愛人を撲殺してしまった(『曹瞞伝』)。

  • 洛陽の北部尉時代、厳しい禁令をつくり僅かでも破った者へ極刑を下した。

霊帝に寵愛されていた蹇碩の叔父も、禁令を破り夜間外出したために即座に捕えて撲殺した。都の人々は震え上がり曹操を憎んだが、追放する口実がなかったため彼を称揚し、頓丘県令に転出された(呉人『曹瞞伝』[注 30])。

  • 兵糧不足の責任を担当係へ押しつけ、処刑。

敵の討伐に赴いた際、糧秣が不足してきたので困った曹操は担当係を呼んで「どうしたら良いか」と訊ねた。すると担当係は「枡を小さくすればどうにか食いつなげます」と答え、曹操はその通りにした。しかし兵士たちが枡が小さくなったことに気付き、「曹操は自分たちを騙している」との噂が流れると兵糧の担当係に罪をなすりつけ処刑し、「この男が枡を小さくして糧秣を盗んでいた」と布告して遺骸をさらした(『曹瞞伝』)。

  • 消火に加わった者こそ本当の賊であると主張し、全員を殺した。

曹操は王必が死んだと聞くと激怒し、漢朝に仕える百官を鄴へ召し寄せ、消火に加わった者は左に、消火に加わらなかった者は右に集まらせた。人々は消火に加わった者は無罪となるに違いないと判断し、皆、左の方についた。曹操は「消火に加わらなかった者は反乱を援助したはずはないが、消火に加わった者こそ本当の賊である」と主張し、全員殺した(『山陽公載記』)。

  • その他

膨大で書ききれないため殺された被害者をここにまとめる

  • 侍中の臺崇、尚書の馮碩(後漢書献帝紀)

  • 琅邪王の劉熙(後漢書献帝紀)

  • 王模、周逵(三国志陳羣伝)

  • 婁圭

  • 赤壁の敗走中に自軍兵士を踏み殺す(山陽公載記)

 

画像引用:

 

ありがとうございました。

今後も歴史修正の監視、改善にご協力よろしくお願い致します。

 

※三国志の文化大革命史とは?

参考として文化大革命のページもコピーしておきます。

三国志ファンの方々は、政治イデオロギーによって三国時代の歴史が修正されていると言う私の話を「統合失調症患者の妄想!!」と呼んで信じようとしません。

しかし中国の文化大革命で歴史人物の評価改変(歴史修正)が行われ、今でも引き継がれていることは以下の通りウィキペディアにさえ書かれている公然の史実です。

三国志ファンの皆様、三国時代だけではなく近現代中国についても少し勉強していただけますと助かります。

 

では文化大革命史 ウィキペディア(リンク先は現時点アーカイブ)より引用していきます。文章引用の後に画像も掲載します。

 

毛沢東による儒教批判、歴史修正指示:

マルクス主義無神論を掲げる中華人民共和国は、「儒教は革命に対する反動である」として儒教を弾圧の対象とした。特に1973年8月から1976年まで「批林批孔運動」を行い、林彪と孔子及び儒教を否定し、徹底的に罵倒した。

多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」としたのである。こうした「儒法闘争」と呼ばれる歴史観に基づいて中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)。

善人

少正卯呉起商鞅韓非荀況李斯始皇帝前漢高祖文帝景帝曹操諸葛亮[34]武則天王安石、李贄(李卓吾)、毛沢東ら。

  • ^ ただし諸葛亮は儒家の印象も強いため、実際の文化大革命運動中には孔子と並び「極悪非道」の人物として貶められた。その後の中国共産党は諸葛亮の名誉を回復しようとしたが、あくまでも毛沢東が評価するフィクション上の「謀略家」としてのイメージにおいてのみ称賛する。なお日本や台湾など東アジアの共産主義者は諸葛亮を「儒家」と見て憎悪、誹謗することが多い。

悪人

孔子孟子司馬光朱熹ら。

毛沢東は曹操が好きだった(このため文化大革命以降、曹操称揚が急ピッチで進んだ):

なお、毛沢東は三国志を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。王安石や李贄が善人側に入っているのは、儒者でありながら、儒教に対して改革的または批判的に臨んだ為である

具体的な活動、歴史人物の評価変更等:

  • 上述されている通り毛沢東は『三国志』を好み、儒家を弾圧した曹操を非常に高く評価し「善人」と呼んだ。この毛沢東の意向に添った歴史修正の論文が文革中や以後に数多く書かれている。郭沫若の主張[72]を下地とした曹操を称揚するための論文では「曹操は正義の英雄である」との前提で虐殺を正当化し賛美するなど結論ありきの史実歪曲がなされた。その一方でこれまで『三國演義』の主人公として中華圏で人気を得てきた劉備については「無能で欲深い悪人」と評価変えし従来の評価を逆転させた。その他の蜀漢人物についても貶めるための誹謗中傷論文が大量に書かれている。特に諸葛亮は法家のイメージがあるため毛沢東は一時「善人」と呼んだが、忠義の行動によって儒家としての評価も高かったために文革では貶めの対象となり、諸葛亮を誹謗中傷するための論文が噴出した。この曹操称揚と蜀漢貶めの史実逆転方針は文革後も続き、日本でも孔子学院等で中華史学者が踏襲している。

  • 民衆虐殺を繰り返した暴虐な独裁者として知られ、中華史上最も憎悪された始皇帝も毛沢東が「善人」と呼んだために評価変えが行われた。特に始皇帝が法家を優遇し、儒家を生き埋め処刑して儒教の書を焼いたことは始皇帝称揚の根拠となった。この時代の始皇帝称揚は、その後に統一政策を強めた中国共産党の方針として受け継がれた。

 

その後… 工作員集合!で歴史修正パーティ

続きの話。その後、工作員たちの間で呼びかけがあって曹操の記事を改変する動きがありました。

この投稿を上げた直後から歴史修正パーティが始まっているので、もしかしたら当記事で報告した書き込みで焦ったのかもしれません。

見ると真っ先に冒頭が改変され、再び「曹操様は演義のせいで悪人にされたのダー 同時代人には絶賛された正義の人だった!」という印象操作がされています。

Wiki曹操ページ、工作員集合!で歴史修正宣言

おそらく彼らが最も隠蔽したいのは「中国共産党がらみ」という箇所なのでしょうが、その箇所を削除しないのは不思議。もしかしたら「毛沢東同志の指導のもと~」との文章にキラキラした誇り(オエ…)を覚えて削除しづらいのかもしれません。