小山田圭吾の件で湧いた、暴力を「時代」で正当化する者たち

小山田圭吾の件で湧いた、暴力を「時代」で正当化する者たち

東京五輪の開幕式で音楽を担当していた小山田圭吾氏が、過去の「イジメ自慢」で批判殺到し辞任した件は大変な話題となりました。

その“イジメ”とされる虐待の内容が非常に凄惨だったため、国内にとどまらず外国にも衝撃が広がっています。

言わば、日本社会が放置してきたイジメ問題という「恥部」が、オリンピックによって世界中に知れ渡った形。

今まで小山田氏の過去をスルーどころか積極的に認め、金儲けに利用してきたメディアが転向。一斉にバッシングを始めたことなど不自然な点は多々ありますが。(後述します:補足※1

それはともかく、この件で加害者を擁護する者たちのカウンター意見も噴出したために、日本がイジメなどの残虐行為を正当化して愉しむ思想に深部から侵されていることが明らかとなりました。

誰が、どのような理屈で加害者を擁護するカウンターの意見を述べているか? 観察することでこの国の病巣が見えてくるように思います。

〔読者様へ〕少し体調が回復してきたので記事を書いています。あまり根を詰めずゆっくり書いていますので、どうかご心配なく。

 

小山田圭吾氏が辞任に追いやられた「イジメ自慢」とは?

まずはご存知ない方のために、事件の経緯を筆者の印象とともに振り返っておきます。

小山田圭吾氏は、1990年代の若者に人気だったミュージシャン。その後「コーネリアス」というグループで海外進出するなど、精力的に音楽活動をしていたそうです。

まさに“90年代の若者”だった筆者は小山田圭吾や「コーネリアス」の名を知っていましたが、あまり興味は持てなかったので楽曲については深く知りません。小沢健二氏などと似たお洒落なミュージシャンという印象で、一部の女子たちには人気だったという記憶だけあります。

そんな小山田氏が、俄かに世間で話題となり始めたのが2000年代。

『ロッキンオン・ジャパン』『クイック・ジャパン』という音楽雑誌で、小山田氏が学生時代のイジメを自慢げに語り編集者も面白おかしく取り上げていた記事がネットで話題となりました。

その内容は“イジメ”と呼ぶにはあまりにも凄惨過ぎたため、多くの人々が衝撃を受けたもの。拷問レベルの犯罪です。

「たかが子供時代のイジメで辞任させるなんて行き過ぎている」と擁護している人は、以下のリンク先記事で具体的な暴行の内容を知ったほうが良いと思います。擁護する余地がないことが分かるはず。(もちろんこの事実を知っても、いや知ったからこそ熱烈に擁護する暴力愛好家たちは一部存在するのですが)

※メンタルの弱い方はクリックを避けてください

この件はネットで何度も大炎上を繰り返しました。旧2ちゃんねるなどの匿名掲示板で立てられたスレッドは歴史に残る数なのではないでしょうか? まとめサイトもたくさんあったと思います。

筆者は匿名掲示板に書き込みしたことなどなく、炎上事件に疎いのですがそれでも知っているくらい有名でした。

以降、小山田圭吾と言えばミュージシャンという前に「排泄物を他人に食べさせて愉しむサイコパス野郎」のイメージが浸透。小山田圭吾という名を聞いたことがある人なら、必ずこの過去を知っています。それだけ避けることのできない情報だということです。

だからそもそも、オリンピック開会式の楽曲担当者に彼が起用されたこと自体が不自然と言えます。小山田氏を起用した者、あるいは推薦した者は、この過去を知ったうえでそうしたのでしょう。

 

小山田氏の暴力を擁護する“鬼畜”たち

この通り小山田氏はネットで大批判されてきましたが、信じがたいことに、昔からこの凄惨な暴力を根強く擁護する“鬼畜系”※信者がいます。

※小山田圭吾などの粋がったアーティストジャンルは“鬼畜系”と呼ばれ、ファン自身も自ら鬼畜であることを誇らしげに標榜しています

「過去のことだから赦してやれ」などというもっともらしい理屈でごまかすのはTwitterなどで本名が出ている場合の、表向きな意見。彼ら“鬼畜系”は匿名になると本心を表し、暴力という行為そのものを「楽しい文化・エンターテイメントだから認めろ」と主張します。ついでに、暴力の批判者を人格否定するなどの誹謗中傷で叩くことも忘れません。

上でリンクしたブログでも暴力擁護者からの攻撃について言及されていますね。

『俺のブログが炎上しててワロタ』より引用:

俺の考えを批判しているコメントもチラホラあるけど、そいつらの思想がどうたらいう以前に文章が稚拙で、こんなもんにいちいち反論する気が失せる。せいぜい勝ったつもりになっていればいいさ。

ちなみにどういう種類の人が攻撃してくるのか上ブログ主さんは語っていませんが、

 冷房のきいたスタバの店内でスマホ片手にカフェラテ飲みながら、やっぱり原発っていらないよねえ、などと知的なおしゃべりしながらコーネリアスを聴きつつ素敵ライフを満喫してらっしゃるスノッブな豚どものところに、う×こだのオ××ーだのという「小山田圭吾における人間の研究」が続々とツイートされていく場面を想像すると、胸が熱くなるな。

という表現から窺い知れるものはあります。※伏字は当ブログ筆者による自粛

(この引用箇所は、お高くとまった“スノッブな”人たちのところにえげつない暴力話がRTされていく…といった状況を表したものです。しかしRTは仲の良い者同士で繋がっていくわけだから、攻撃しているのも同種の者たちだと推測できるでしょう)

 

【重要情報】小山田圭吾氏がいじめをおこなっていた学校が、共産党シンパによる運営だったというオチ

小山田圭吾の障害者いじめを実質的に放置していた当時の和光学園校長、共産党員の可能性が浮上
と言うことは、やはり小山田圭吾の凄惨な虐待を擁護し称賛していた鬼畜たちの正体も……

女子高生コンクリート詰め事件と同じ背景か。

そもそも小山田は左翼の仲間だったからチヤホヤされ有名になったのだと言える。それにも関わらず、今回は東京オリンピックを潰すために仲間を生贄とした。共産国でもよく見かける内ゲバの末の吊るし上げリンチ。

蟲毒だなあ。鬼畜は同じ鬼畜に喰われる結末となる。

 

このたび目立ったカウンター

今回、小山田氏が東京五輪に関わったことで、これまでネットの中だけで語られてきた「イジメ自慢」問題が大手メディアに取り上げられ世界中に知れ渡ることになりました。

そのため、有名人たちもテレビなどで公にこの問題に触れています。

さすがに今回

「暴力は文化だから小山田圭吾のしたことは正しい。虐待もエンタメとして愉しむべきものでしょ。イジメ最高に愉しい♪」

といったネットで散見される鬼畜意見は少ないようです。たぶん外国メディアの批判があったからでしょう。“海外の目”に弱い日本人…。

しかし相変わらず、オブラートに包んで小山田氏の暴力を擁護する者は大勢いるようです。

爆笑問題の太田光氏による擁護意見が典型的なものでしょう。

【参考リンク】太田光 小山田の虐待問題で持論「今の価値観で断罪は」「全うすれば違う見方も」より引用

 当時、記事が雑誌に掲載されたことは「そういう局面が当時サブカルチャーの中にあった」ということだと指摘し、「俺たちのネタもひどいですよ、昔やったネタなんてひどい。未熟だったし、残酷だったし」と述べた。

「その時代の価値観を知りながら評価しないと、なかなか難しいと思う。今の価値観で断罪してしまうことは」とも語った。

太田氏は番組へ殺到したクレームに対して、後に「イジメを擁護したつもりはない」などと弁明しています。

ふむ、確かに太田氏には暴力を擁護するつもりはなかったのかもしれない。

しかし結果的に太田氏の発言は、加害者を擁護する代表意見として広く拡散されることになりました。何故なら実際、小山田圭吾氏を擁護している暴力愛好家たちの意見を代弁していたからです。

小山田氏を擁護する者たちがよく述べる意見:

あの時代はイジメが文化であり、エンターテイメントとして許容されていた。そういう時代だったのだから小山田圭吾も、イジメを愉しんだ僕たちも悪くない

概ね、太田氏の意見と同じ印象を受けると思います。内心で暴力を愛好しているか否かの違いはありますが。

太田氏は決して暴力愛好家の側ではないでしょう。むしろ逆。それなのに、暴力愛好家たちが自己弁護のために使う詭弁を知識として仕入れ、カウンターとして誇らしげに口から出してしまっている。無知は罪…と言えるかもしれません。犯罪者に利用される拡声器のような人です。

そう言えば太田氏は以前、木村花さんを自殺に追いやった誹謗中傷犯を責める声を批難していました。つまり無抵抗の女性に対する人格否定の歪んだ暴力を擁護した。しかし今回は逆に、暴力を批判する正当な訴えのほうを叩いています。暴力としての悪口書き込みは自由で保護されるべきなのに、暴力を批判する意見のほうはあっては駄目?(本人はこう述べたつもりではなくても、擁護したものの結果で見ればこの通り解釈される) ブレブレです。自分のなかに善悪の基準を持たないのでしょうか。いずれにしても、どういうわけか常に悪質な暴力をふるった側を擁護している。

彼はいつも世間の大多数に対してカウンターすることだけ考えているから、このように“人としての感覚”と反対の加害者擁護をしてしまうのかもしれません。ただ反対意見さえ述べれば「多角的に物が見える賢い自分」「犯罪者の気持ちにも寄り添える心が広い自分」を演出できると思っているのなら、あまりにも浅はかです。

石を投げるな! という批判封じの伝統的手法

太田氏がよく言う、「石を投げるのは(人を批判するのは)ダメ」という意見について。

確かに私も大勢の人が批判を暴走させて一人を吊るし上げる状況は危険だと思います。中国の文化大革命で起きた大殺戮のように、集団によるなぶり殺しへ発展する可能性もあるでしょう。

しかし今回は暴行をした犯罪者が法で裁かれることもなく、反省さえすることのないまま雑誌インタビューで「イジメ自慢」をして青少年に暴力を奨励したうえ、オリンピックという大舞台で日本の代表的音楽家のように起用されてしまいました。

一般国民からの批判の声が大きくなったのは、やむを得ないことと言えます。一般国民は意見しか言えないのですから。

これは客観的に見て“弱者なぶり殺し”の状況とは逆で、「ダメなものはダメ」という弱者の側に立つ訴えが数多く上がったというだけのこと。(ただし小山田氏の息子など家族まで誹謗中傷するのは正当ではない)

犯罪に対する批判を見かけるたびに、脊髄反射で「石を投げるな」という言葉を振りかざす癖がある人は要注意です。この聖書に由来する言葉には、批判を封じて個人の権利を奪う力があるからです。

「自分に罪が無い者だけが石を投げることができる。罪ある者は石を投げる資格は無い」

などとはいかにも善良な正論のように聞こえる言葉ですが、この言葉の本質には、罪の大小に関わらず全ての人を一律で罪人の側に封じ込め(奴隷化という平等)、個々人の自由意思で言論する権利を奪う呪詛があります。つまり全体主義を実現するプログラム言語と読み解けます。

あるいは、犯罪者天国を実現させるプログラムとも言えます。誰にも犯罪を批判する権利が無いのだとすれば、加害者は処罰を免れて自由に犯行を続けることができるいっぽうで、被害者は抗う声さえ上げられなくなるということです。被害者は永久に救われず、口を封じられたまま死んでいくだけ。

卑近な例で分かりやすく言えば、オンラインサロンの「批判禁止ルール」に同じです。皆が仲良く楽しく交流するためのルール、という説明は聞こえがいいけど、サロンが犯罪の温床になっても被害の訴えは封じられることになります。こうしてサロンは犯罪者が大手を振って被害者を食い物にしていく、犯罪者のためだけの「自由な狩場」として閉ざされます。小さな全体主義世界の完成です。中国共産党はこの規模を大きくしただけの犯罪者天国(つまり地獄)。

「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」はもっと露骨な被害者の抵抗封じ。犯罪者擁護の暴力奨励と言えます。

このような正義正論潰しの詭弁は、昔から一神教で実行されてきた奴隷支配の手法です。

かつて異国の宗教文化を潰して蛮行を繰り返した者たちが、自分たちが断罪されることを防ぐために「石を投げるな」と叫びました。今は左翼を始めとする暴力主義者たちが、蛮行への批判を免れるために好んで使っています。

太田氏の言う「石を投げるな」も、実は左翼界隈ではおなじみの慣用句。左翼思想が浸透した日本の小説、マンガなどでもよく使われています。

彼ら左翼自身は他人を批判・中傷することが日常なのに、何故か他人が暴力を批判している場面を見かけると「石を投げるな! お前は罪人だ!!」と悪魔のごとく責め立てます。

(「私が他人を裏切ることがあっても、他人が私を裏切ることは絶対に許さない」by曹操と同じエゴイストですね。なるほど左翼が曹操を崇拝することに納得)

このような犯罪者のために生まれた詭弁を持ちだし、暴力に抵抗する人たちの口を封じるのは“人として正しいこと”とは言えないでしょう。それどころか動物の本能から見ても間違っています、弱者(たとえば子)への暴力を許容したら種が絶滅するからです。ゴリラですら弱者への暴力を許しません。つまり「石を投げるな」論の偽善者は猿にも劣るということ。

「批判は暴走する危険があるからダメ」と言うのなら、イジメの処罰を司法に委ねることを可能にすべき。集団による断罪の暴走を防いで公平に処罰するために「法治」というシステムがあります。外国では小学生ですら他人の心身を傷付けたら裁判にかけられ、処罰されます。日本でもそうすべきでしょう。

 

「時代」で蛮行を正当化する暴力愛好家たち

この件でもう一つ筆者が残念に思ったのは、太田氏の発言によって

「90年代はイジメが許されていた。イジメが自慢になる時代だった」

という誤ったメッセージが広まったことです。

(太田氏の本意ではなくてもそのような意味で広まったことは事実)

若い人たちへ、どうかそのような話を信じないでください。90年代でも小山田圭吾氏が行ったような陰惨な虐待が称賛されていた事実はありません。

現に小山田圭吾氏のインタビューに怒ってネットで批判していたのは、90年代に学生時代を過ごした人々です。同世代の者として証言しておきます。

メディアの姿勢が今と違っていたことだけは「時代性」として挙げられるでしょうか。90年代初頭のメディアは過激な内容で儲かればいいと考え、テレビも雑誌も暴力を商売のネタとしていました。まだネットもなく一般人が批判の声を上げる手段がなかったからです。そのような時代背景は事実としてありました。

【参考リンク】「小山田圭吾」がオリンピックに相応しくない最大の理由 「メディア営利」の軌跡が示す適性/不適性(JBpress)

それから、不倫やその他のスキャンダルに関しては、確かに今ほど細かくなかったと思います。これだけは「時代の違い」と言えますかね。

今は何でも吊るし上げの材料となってしまい、狭量過ぎると感じます。だからお笑い芸人たちが批判を恐れて「毒のあるネタができなくなった、過去のネタを蒸し返されて吊るされるのでは?」と戦々恐々とするのも分かります。※補足2

ただ、大声で言っておきたいのは

いつの時代でも弱者への暴力が称賛されたことはない

ということです。

 

小山田擁護は、曹操信者の「当時は民衆虐殺も許された時代だった」にソックリ

暴力を愛好する者たちは、自らの嗜好を正当化するために「時代」を言い訳として利用することがよくあるようです。

今回の太田氏のカウンター意見で真っ先に思い浮かべたのは、曹操を崇拝する狂信者たち(自称・曹操ファン)が、曹操による徐州住民ジェノサイドについて

当時は民衆虐殺は普通のこととして認められていた時代だった。曹操様の殺戮は合理的な考えに基づく正義の行いだったから、当時の人たちも称賛していた。

などと嘘をついて正当化していることです。

「合理的なジェノサイド」と呼んで民衆虐殺を称賛するとは! まるで中国共産党員がウイグル人へのジェノサイドを正当化するような非人間の詭弁だな…と呆れますが、何よりも「時代」を利用して正当化していることに憤りを覚えます。

古代のことだから勝手に作り話をしても分からないだろうと思っているのでしょうか? 愚かですね。

人の価値観は確かに時代・文化によって変わることがあります。特に戦争の場合はあらゆる暴力が許容されることは悲しい事実です。とは言え、その場合であってさえ「敵に対して」という条件付きです。(これは私自身の考えとして「敵を殺すことなら正義である」と述べているわけではありません)

しかし子供や女性、障碍者など、弱者への虐待といった根源的なことに関する善悪基準は普遍的で人類共通していると言えるでしょう。

たとえば、丸腰で無抵抗の自国民を、国軍を差し向けて殺戮するという“民衆ジェノサイド”が許され称賛されていた時代など人類史にありません。

曹操について言えば、徐州住民へのジェノサイドは当時の大陸全土に衝撃を与え、曹操への評価は地に落ちました。だからこそ「あのような人物に国を奪われるわけにはいかない」と言って全土の人々が必死に抵抗したのですし、曹操へ対立した蜀の劉備たちが大人気を得たのです。これは『正史』でも裏付けられる歴史的事実

参考:『曹操はサイコパスだった!』より転載

父親が徐州からの帰り道で殺された腹いせに、無関係な徐州住民を大虐殺した。老若男女、妊婦、胎児、犬に至るまで生きている者は皆殺しにされた。遺体を投げ入れられた河は赤く染まり、やがて水の流れも止まった。この前代未聞のジェノサイドは繰り返し行われた。…『後漢書』他

曹操や始皇帝など民衆虐殺をした者を称えているのは、共産中国と左翼思想に侵された日本人だけ。あるいは生まれつきのサイコパスで暴力愛好家。

 

過去について「時代」を理由に虐殺を称賛する者たちは、必ず未来でも「今は虐殺も許される時代になった」と言って愉しみながら同国人を殺すでしょう。

この暴力愛好の悪しき習癖を将来へ引き継いではなりません。

 

補足

※1 小山田圭吾氏が「イジメ自慢」していたことはとても有名な話であり、彼を起用または推薦した者がその過去を知らなかったとは考えづらい。と言うことは、小山田氏が起用されたこと自体に何か目的があったということになるでしょうか。たとえば始めから直前にスキャンダルを世界へ発信し、日本のイメージをダウンさせる計画だったとか。日本の五輪を穢し、大会そのものを潰すためとか。…穿った考えかもしれませんが、今まで徹底的に小山田圭吾氏のイジメ問題をスルーして彼を重用してきた日本の左翼メディア(NHK、TBS、テレビ朝日)が、この時期に一斉に取り上げて騒ぎ立てたことがあまりにも不自然。日本の一般人が「またしても反日勢力による日本貶め謀略か…。五輪を潰したくてしょうがないのだな」と考えても仕方ないでしょう。下の小林氏に関しても同様。左翼メディアが足並みを揃えるときには必ず謀略があります。

※2 別件で、解任された小林賢太郎氏「ホロコーストをコメディのネタにした」という話は疑問に思います。現実に暴力を愉しんだ小山田圭吾氏の件とは次元が違う。確かにホロコーストをお笑いネタにしたことは下劣と思いますが、ネタのニュアンスからは無知で未熟なだけという印象。小林氏が小山田氏のように普段から暴力を愛好していた人物だとは感じられなかったし、ユダヤ人への憎しみや差別意識を持っていたわけではないと分かります。ただ、歴史をよく知らなかった可能性あり。このような日本人の無知ぶりこそ“時代・文化の特殊性”と言えるかもしれません。日本人がゲバラの肖像画をサッカーチームの応援で掲げてしまうことと似ている。「その任に相応しくない人物」として断罪するなら、発言の真意とともにその人の思想背景、過去の行いを調査する必要があります。問題ある発言をしたとしても、その奥に暴力を愛好する意識があるかどうか、殺意を抱いているかどうかが重要でしょう。文脈が見極められない外国人たちが、発言の一部だけ切り取って批判するのは行き過ぎていますね。これこそが暴走した「吊るし上げ」と呼べます。…ところで韓国アイドルのBTSこそ本気のユダヤ人ヘイト主義者ですが、彼らだけはどうして許されて国連などで意見できるのでしょうか? 不公平極まります。

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