諸葛孔明は⽯⽥三成に似ている、か︖

諸葛孔明は⽯⽥三成に似ている、か︖

「諸葛孔明は⽯⽥三成に似ている」という論をネットで⾒かけて⾯⽩く眺めていました。

⇒実際の諸葛孔明って⽇本の⽯⽥三成に似ていたって聞いたんだけど本当ですか︖

どう、なのだろう︖

私は⽯⽥三成の⼈⽣に詳しくないし、諸葛亮のことは客観的に⾒られないのではっきりとは分からないのだが。
考えてみます。

※初心者の方はこちらへ

孔明ってどんな人だったの?に回答。諸葛亮の実像・性格分析【年表あり】

〔2017年6月23日筆 本文常体〕

兵站は最も重要な仕事のはずなのに

直観で、三成と孔明の性格タイプは違うような気がする。

おそらく主君が死んだ後も忠誠を貫き戦った、という共通項だけで「似ている」と⾔っているのではないかな。
またフィクション孔明のイメージが「策略家」であるために、「策略家」キャラの⽯⽥三成に似ていると誰かが⾔い始めたのでは。つまりこれもフィクションに引きずら
れたイメージ。

と、思っていたのだが、こちらを読むと説得⼒はある。

『孔明と石田三成』より引用

秀吉は、しばしば20万とも30万とも⾔われる⼤軍を⼩⽥原や朝鮮半島に送り込んでいますが、それほどの⼤軍のロジスティックを整えることは、16世紀の技術を鑑みれば驚異的な偉業です。その偉業の仕掛け⼈こそ三成。⽯⽥三成は、まさに超絶的な天才管理部門⻑だったのです。

なるほどね。
職務内容は似ていたのかもしれないな。だいたい室内で過ごしているような地味な感じが。

ただ、そもそも「軍師」=「軍事関連の専門家/防衛担当」だから、後⽅にて戦争計画を⽴てるのが職務。
そして戦争計画の根幹は兵站。つまり戦争で必要な物資・⼈事の管理がメインだ。
このため戦略家であるなら誰でも兵站重視となる。逆に⾔えば、「管理部門⻑」の資質がなければ軍師として⽋陥がある――と⾔うより中国的には「軍師」と呼ばれる資格がない――と⾔える。

しかし⽇本は古来、兵站の概念がほとんどなかったらしい。
※⼟地が狭いため兵站の必要性が低く、兵站中⼼に計画を⽴てる伝統がない。「軍事」と⾔えば⻑いこと、源義経のように、現場でパッとした奇策を⽴てて戦うことなのだと考えられてきた

だから⽇本で「軍師」と呼ばれる⼈たちは、現実には兵を率いて現場で戦う⼤将であったり、殿様の出兵に付き添う家⾂であった。
そんななか、⽯⽥三成だけが本来的な「軍師」の仕事をしていたのかもしれないな。

三成の場合、朝鮮半島など⽇本国内ではあり得ない⻑い距離を進軍する戦争の計画を
⽴てなければならなかった。だから必然的に兵站重視になったとも⾔える。
しかし必要に迫られたからと⾔ってすぐにできることでもないと思う。太平洋戦争時、⽇本軍は必要に迫られていたのに兵站軽視の傾向があった。ドイツ参謀から近代の軍事を学んだ後であるはずなのに。

⽯⽥三成が必要に迫られたとき、即座に⻑い距離の進軍計画を⽴てることができたのは相当に賢く優秀であったことの証。⽇本の⼟壌で⽣まれたことが奇跡の、稀有な⼈材だったのでは︖

だが残念なことに⽇本では⽯⽥三成のような仕事は「軍師」と呼ばれない。
後⽅で物資・⼈材の管理に汲々としている者は、せいぜい「倉庫番」としか⾒られず⾒下されるのだろう。それで三成はあまり評価されなかったのかもしれない。(全てにおいてそうだが、この国では最も⼤事な仕事をする⼈をバカにして低評価で貶める傾向がある)

管理者として優秀だった三成は、巧みな根回しの⼒で、家康を圧倒する⼤軍を糾合することに成功しました。しかし、彼には軍⼈としての奇才に⽋けるところがあったため、重要な局⾯で常に退嬰的な戦法を取ってしまい、戦場でイニシアチブを握ることが出来ません。島津義弘などは、何度も積極攻勢を進⾔したのですが、三成は「危険だから」という理由でその意⾒を全て握りつぶしてしまいました。彼は、結局、防戦⼀⽅に陥ったところを味⽅に裏切られて敗れ去るのです。

管理部門⻑は、「リスクの軽減」を⾄上命題とする仕事なので、リスキーな戦法を極端に嫌う性向があります。それが、この局⾯で仇となったのです。

確かに、防戦のみに終始したのならあまり良くないね。

ただ以下の表現は正確ではないなと思った。

>管理部門⻑は、「リスクの軽減」を⾄上命題とする仕事なので、リスキーな戦法を極端に嫌う

リスクの軽減を重視するのは「管理部門⻑」だけではない。
軍師、参謀、戦略家等々戦争計画を⽴てる者であるなら全ての者が「最⼩のリスクで最⼤の効果を得る」ことを第⼀とする。

たとえば分かりやすく現代で例を挙げると、コリン・パウエル。
パウエルは「撤退まで計画できなければ派兵は絶対にしない」と主張したため慎重派と呼ばれているが、彼だけが特別に慎重なのではなくて参謀として当たり前の態度だ。

リスク軽減の本能を持たなければ参謀⻑の仕事は務まらないだろう。務めるべきではない、とも思う。
本来、退陣するところまで計画ができていなければ軍隊を動かすのはご法度。
⼭本五⼗六のようにギャンブル的な作戦に打って出るのは、それしか選択肢がないときの緊急避難的な場合に限られ、戦争全体の計画でギャンブルを継続してはならない。
(⼭本五⼗六はギャンブルを継続するつもりは⽑頭なかったと思う。敵国の実⼒と⼼理を読み誤った。と⾔うよりは、上層部の圧⼒に負けて仕⽅なく、だったはずだが)

三成の不幸、正義や道義が重んじられないこの国

三成は、同僚たちを容赦なく管理し締め付けたために、豊⾂政権内で多くの政敵を作ってしまい、それが「関が原」⼤敗の原因になったのです。それは彼の「正義派」としての厳格な仕事ぶりが、正義よりも和(もたれあい)を重んじる平均的な⽇本⼈の精神風⼟に忌避されたからでしょう。そういう意味では、三成の最⼤の不幸は、正義や道義を重んじないこの島国に⽣まれたことかもしれません。
その点、孔明は、正義を⼤切にする⽂化を持つ中国で活躍したがゆえに、その不朽の名声を後世に残すことができたのでしょう。

>三成の最⼤の不幸は、正義や道義を重んじないこの島国に⽣まれたこと

これは悲しい。私もそう思う。
この国の⼈々の道義を重んじない態度には呆れるばかりだ。
(と⾔うよりこの国の⼈々、特に現代⼈の多くは、何が「道義」なのかもよく理解していない)

しかし中国⼈の全員が正義や道義を重んじるかというと、それも疑問だが……。

それに三成が裏切られたのは三成⾃⾝の⼈望のなさが第⼀の理由ではなく、状況のせいではないかと思う。
つまり豊⾂秀吉のせいだ。
死後に家⾂の結束が崩れるような状況を作ったのは⽯⽥三成ではなく、豊⾂秀吉だろう。

豊⾂秀吉は、⼈徳において劉備とは⽐べ物にならない。
劉備の⾂下たちが彼の死後にも裏切らず、結束していたのは何故か︖
劉備⾃⾝の⼈徳が圧倒で⾼く、⾂下たちに愛されていたからだ。

「忠誠を尽くす」ことは⽂字に書かれた法律に従うこととは違う
結局は、こう⾔っては語弊があるのかもしれないが「愛(敬慕)」だろう。⼈が⼈を慕うという意味での。

⼈間は⾃分の本⼼を裏切ることができない。
本⼼から敬愛と信頼の⼼があれば、その⼼に従わざるを得ない。
諸葛亮が従ったのはその本⼼であって、⽂字に書かれた「忠誠」という法律ではな

いっぽう三成は⽂字に書かれた「忠誠」という法律に従ったのではないかと思う。
偉い態度だとは認める。
だが本⼼でないなら周りは違和感を覚えるし、従うことはできないだろう。

私は個⼈的に徳川家康のほうに⼈徳の⾼さを感じる。
⽣き残りをかけた当事者たちが、関ケ原の前線で追い詰められた時、家康を選択したのも無理はないだろうと思ってしまう。

暗闇を⾶ぶ⾍が明るいほうを目指すように、⼈は⼈徳の⾼いほうへ引き寄せられていく本能を持つのだ。

結局、似ているのかどうなのか︖ まとめ

まとめると、

・⽯⽥三成と諸葛亮の職務内容には近いものがある
・ただし両者の置かれた状況も、性格タイプも全く違う

ということが⾔える。

ちなみに両者の性格タイプについて、決定的な違いを指摘するなら
⽯⽥三成は社交性に優れている
というところではないかな︖

たぶんあまり知られていないだろうが、現実の諸葛亮は社交性が低い。

※諸葛亮の社交性の低さとは=若い頃の勉強法から彼はギフテッドだったと推測できる。ギフテッドは嘘がつけず、率直に物を言う。野心もないので、おべっかや表面的な「おもてなし」が大の苦手。

ギフテッドとは:

「テキストをざっと読むだけ」孔明の勉強法は適当? ギフテッドの学習法を解説

【追記】諸葛亮が低いのは「社交性(お世辞を言ったりする技術)」。「社会性(他人のことを考える力)」なら、けっこう高めだったようです。下の性格分析参照:

諸葛亮の性格をテキスト分析プログラムで診断した結果【資料】

そんな両者の決定的な違いは、このエピソードに表れている。

このとき、有名な逸話がありますね。秀吉が、鷹狩の帰りにある⼭寺に寄ったとき、たまたまその寺で茶坊主をしていた三成が、秀吉に茶を振舞ったのです。最初は温いお茶、次に少し熱いお茶、最後に熱めのお茶を出した三成の機転に感⼼した秀吉は、住職に頼んで三成を部下に貰い受けたと⾔われて
います。
おおかた作り話なんでしょうけど、なんとなく「三顧の礼」に似た雰囲気のエピソードですな。あえて⾔うなら、「三茶の礼」ってとこでしょうか︖

>なんとなく「三顧の礼」に似た雰囲気のエピソードですな。

いや、全く違うと思います(笑)。すみません。
むしろ正反対です。

上のエピソードは「お・も・て・な・し」でしょう。
つまり、秀吉への接待がうまかった、ということを表す。
秀吉は⾃分に対して気遣いのできる、愛想の良い⼈間を好んだということを表すエピソードだね。
フィクションであっても、秀吉の性格をよく表している⾼度なフィクションだと思う。秀吉は⾃分に尻尾を振る⼈間を可愛がるタイプ

私が思うに、劉備なら「三度も茶を出す」ようなことをする⼈間に興味を持たない。
「ご丁寧にどうも」
と⾔うかもしれないが、気にも留めないだろうな。
⾍の居所が悪ければ「茶なんか適当でいいよ、⾯倒なことをしないでくれ」と怒るかもしれない。

劉備は⾃分に尻尾を振る⼈間を本能で嫌悪するタイプ
過剰な接待、過剰な愛想の振りまき、おべっか。そのようなものに嫌悪を感じて遠ざける。
(汚い⼈間の⼼が嫌い。証拠︓賄賂を要求してきた役⼈を半殺しの目に遭わせた。… 半殺しはさすがにやり過ぎと思うが、⼈間の卑しさに対する潔癖とも⾔える態度がよく表れている実話だ)

だからこそ正直で素朴な⼈間で⾝の周りを固めたわけで、その典型が諸葛亮ではなかったのかなと推測している。

おそらく諸葛亮は秀吉のもとでは⼀瞬で潰れる。
ゴマをすることが全くできないので秀吉には相⼿にもされないだろう。
相⼿にされないどころか、マイペースであるため「気味悪い奴」「むかつく奴」と思われてすぐ殺されてしまうのでは︖

このように、⽯⽥三成と諸葛亮は性格も違えば仕えた主⼈も違った。
諸葛亮の⼈⽣が幸福だったのは、ありのままの⾃分を気に⼊ってくれる主⼈と巡り合ったからではないだろうか。

私が諸葛亮に似ていると思う戦略家

おまけの話。

ネットでよく「諸葛孔明と似ている戦略家は誰か︖」などという話がされているみた
いなので考えているのだけど、誰だろうな。

私が諸葛亮と似ているなと思うのは、やはり秋⼭真之参謀ですかね。
真之は⼦供のころガキ⼤将だったらしく、そういうヤンチャなところは諸葛亮とまるで違うのだが、勉強の仕⽅はよく似ている。

記録による根拠。
孔明︓ 本質のみ抑えれば良しとし、勉強では⼤雑把にテキストを読み流していた
真之︓ 同上。⼀夜漬けでテストのヤマを当てる天才で、学⽣時代は学友たちにヤマを売っていた

あとは、⿊島参謀も近い気がする。
諸葛亮は秋⼭・⿊島ほど全開の「変⼈」ではないのだが(笑)、遠縁ではあると思う。
⼤らかな上司のもと、のびのびと作戦⽴案に没頭する状況が何より似ている。

秋⼭・⿊島では変⼈ぶりが全開過ぎて想像と違うと⾔われるなら、クラウゼヴィッツはどうだろう。
⾝なりに気を使わない汚い変⼈ではなく、上品な貴族タイプだったクラウゼヴィッツ。
だがやはり作戦家らしくコミュニケーション不得⼿な⼀⾯があり、
「雑談が苦⼿で、⼈が多く集まる場所からはそそくさと逃げていた」
というエピソードを持つ。共鳴するなあ…笑。現実の諸葛亮はたぶんこんなタイプ。
(もちろんクラウゼヴィッツと諸葛亮の主義は違う。「敵戦闘⼒の撃滅」などの激しい主張は、孫⼦を敬愛する諸葛亮には賛同できないはず)

諸葛亮の場合、⽴場が⽴場であったためにいつまでも作戦室に閉じ籠もっていられなかった。
そのため政治的なイメージがあるのだろうが、基本性格は上の作戦家たちに近いと思う。

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