曹操ってどんな人?〔前編〕 意外に知られていない実像。生い立ちと生涯、評価
- 2021.09.13
- 古代中国史
- どんな人? 人物紹介, 三国志(趣味雑談), 初心者の方向け解説, 曹操

〔曹操の史実です。初心者の方向け、簡単に書きます〕
マンガなどで超絶天才、正義感の強い完璧な英雄として描かることの多い曹操。容姿も織田信長に似た端麗な顔立ち、八頭身の美形として描かれますね。
さらに近年では中国史の学者たちによる、曹操を完全無欠のスーパーヒーローとして称賛するための書籍がたくさん出版されています。
いっぽうで、曹操に関する不都合な史実はネットからも書籍からも一斉に消去されつつあります。
このため現代では、曹操が現実に「美形・天才・正義の味方」だったと心から信じている方が多いのではないでしょうか? 中国学者たちが「今の曹操イメージが史実だ」と宣伝しているので無理もないのですが。
実はこれら、美しき曹操像は歴史を修正して創り出された“架空”に等しい人物像です。
どれほど歴史修正されているのかというと、たとえば中国共産党による『毛沢東の評価』と同じくらいです。つまり、相当にアクロバットな修正が行われているということ。日本の三国志ファンが崇拝させられている「曹操」という人物像は、史実から遥かにかけ離れた妄想であるとさえ言えます。
前後編に分けた当記事では、現代で消されつつある曹操の“実像”を古代史書から読み取っていきます。
なぜ今、歴史学者まで総出でこのような歴史修正が行われているか? という謎はこれまでも当ブログで読み解いてきましたが、この記事後半にまた少し解説しておきます。
【筆者について】当記事は曹操に批判的という印象を持たれるかもしれませんが、歴史修正せずに史実を読み解くとこうなるというだけのこと。著者は「フィクション信者」ではなく、むしろ史実しか知らない者です。筆者については後半記事↓参照。
基本的なこと。「曹操って何をした人なの?」
曹操(そう・そう)/孟徳(もうとく)は、約1800年前の中国で生きた武将であり、魏の王です。
当時は漢(かん)という王朝が大陸を治めていましたが、宗教団体が起こした暴動「黄巾(こうきん)の乱」などで国が傾き、内乱状態となりました。
この混乱期、歴史の表舞台に登場した武将の一人が曹操でした。
やがて大陸は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国に分かれます。曹操はそのなかの魏で、王位の座につきました。
間違いやすいのは、曹操は魏の“皇帝”ではなく、“王”止まり※で生涯を終えたことです。
※日本語感覚では分かりづらいのですが、中国では「王」と「皇帝」は別の地位を指します。漢代における地位名序列を簡単に言うと、各地に封じられる「王」を統べるトップが「皇帝」です。つまり皇帝がいちばん偉い。
最近の学者が言うように、「曹操様は高潔な人格だったから漢の皇帝に忠誠を捧げたのだ」ということでは全く無く、劉備らを抹殺してから皇帝の座に就くつもりでいたところ、病で突然に死んでしまっただけ。つまり皇帝になるには寿命が足らなかったというだけのことです。
現実には、曹操は漢皇帝の献帝(けんてい)を差し置いて皇帝のような振る舞いをしています。
三国時代の簡単な解説はこちら
当時の人物名についてはこちら。「曹操」二字が姓ではありません
曹操の生い立ちと大まかな生涯
“正史”と呼ばれている陳寿著『三国志-魏志-武帝紀(曹操の伝記)』より、曹操の生い立ちと生涯を大まかにご紹介します。
出自にコンプレックスがあった
曹操は西暦155年(永寿元年)、現在の安徽省亳州市譙城区(豫州沛国譙県)に生まれました。誕生の月日は分かっていません。
宦官で大長秋(皇帝の侍従トップ)まで登りつめた曹騰(そう・とう)の養子、嵩(すう)の子です。
曹家は前漢の時代に相国(宰相)をつとめた曹参を先祖に持つ名門。また、高位の宦官だった曹騰は祖父に当たりますが血のつながりはありませんでした。正史には「父の曹嵩の素性は明らかではない※」と記されています。
権力を牛耳り人々から憎まれていた宦官を祖父に持ち、父の素性も明らかではないと言われていた。これらのことから曹操は出自にコンプレックスを持っていたと考えられています。
※ただし『曹瞞伝』『世語』によれば、曹嵩は夏侯家の人だそうです。夏侯家も名門ですが、曹操を「武帝」として崇める正史の立場では、曹操にとって不利なルーツと考えられたのか?
幼少期の性格
正史によれば
「曹操は子供のころから他人を騙して操る能力に長け、イキがって遊びほうけており、学問には見向きもしなかった」
とのこと。曹操を持ち上げるために書かれた正史ですらこのような表現をしているということは、実際の評判はもっと相当に悪かったものと思われます。
幼名は「阿瞞(あまん)」。これは、「嘘つきちゃん」という意味です。幼い頃から嘘をつくのが得意だったのでこのようなニックネームで呼ばれていたとか。
これら曹操に不利な記録は曹操信者たちが「デマだ」と叫んで否定するのですが、現代精神分類に照らしても、幼少期~死ぬまでの一貫した人格特性を表した正しい評価だと思います。下記事参照。
容姿の醜さもコンプレックスだったか
曹操は現代のマンガやゲームで描かれているような超絶美形ではありません。
彼の容姿について、史書には「歪んだ顔で細い目」をした醜い男だったと記録されています。このことを裏付けるように、曹操自身も容姿に劣等感を持っており、使者との面会では代役を立てていたという逸話があります。
また、曹操が呂布の騎兵につかまったときは、曹操であることに気付かれずに逃亡できました。雑兵に見えるほどみすぼらしい姿形をしていたのは確かなようです。
曹操信者たちが「曹操様の容姿が醜かったという記録はデマだ! 痩せていて長身でらっしゃったから自信が無かっただけだ!」という話をネットのあちこちに書き込んでいますが、残念ながら近年の発掘調査でも曹操の身長は154センチだということが分かり、信者たちの嘘が判明しました。
どうやら史書に記された曹操の容姿に関する話は概ね、事実だと考えて良さそうです。
容姿など別にどうであっても構わないではないか?と思いますが、曹操信者たちは「我が曹操様は容姿も完璧に美しくあるべきだ」と願うあまり、現実を離れた夢のなかに棲み続けることに決めたようです。
参考図 曹操の史実の顔
曹操の発掘された頭蓋骨と、子孫のデータから“現実の曹操の顔”が復元されています。携わったのは頭蓋骨からの復元を得意とする学者、趙成文教授とのこと。
右側が現実に近い顔。左側が、曹操信者が史実だと頑なに信じている妄想上の曹操。
言っておきますが、右側の図でもおそらく相当に美化されています。中国メディアが「(復元された曹操の顔の)威風堂々たる雰囲気に驚愕」などと絶賛していますので、おそらく党の命令通りに美化した結果がこれ(笑)です。日本人感覚だとちょっと理解に苦しみますね。
文献には「歪んだ顔、細い目」と記されていますから、現実とはだいぶ異なる容姿でしょう。おそらく頭蓋骨と関わりのない表皮部分でかなり忖度したと思われます。
青年期。出世コースに乗り、黄巾の乱で名を売る
二十歳で成人を迎えると、曹操はさっそく出世コースに乗りました。
最高位の宦官の孫でしたから、どれほど遊びほうけて悪さをしても「役人にふさわしい人格者」の推挙※を得て、官僚の見習いとしてデビューすることができました。
※正しくは「孝廉」の推挙。当時は資格試験や面接試験などを受けるのではなく、有力者からの推薦を得れば出世コースに乗ることができた。つまり、純然たるコネ社会。家格とコネだけで出世できるか否かが決まる事実上の階級社会だった。無能な者でもコネさえあれば出世できる社会では国が傾く。そのような不具合を避けるため後世で考え出されたのが、「科挙(かきょ)」という中国流の公務員試験(ただし科挙にも後々問題が生じる)。
曹操が三十歳のときに「黄巾の乱」が起こり、討伐の功績で知事となります。
その後、幼い献帝(けんてい)を傀儡(かいらい。操り人形のこと)として朝廷の権力を牛耳った、董卓(とう・たく)を倒すため挙兵しました。
少年皇帝を手に入れて傀儡とし、覇権を狙う
賊である董卓を討伐するため、袁紹たち各地豪族との連合軍に参加して戦った。
ここまでは曹操の史実です。しかし、「高潔な人格者であらせられる曹操様は、暴虐な董卓に憤り、幼い皇帝を守護するために正義の挙兵したのだ」という現在宣伝されている美談は眉唾です。
何故なら董卓が呂布(りょ・ふ)によって殺された後、守護をすると言って献帝を迎えた曹操は、董卓と同じように献帝を傀儡として権力を独占したからです。
耐えかねた献帝が、曹操の暗殺を親戚の董承(とう・しょう)や劉備(りゅう・び)らに依頼しました。ところがこの暗殺計画は未然に発覚し、関係者は全員処刑されてしまいました。
たまたま曹操の命を受けて出征していた劉備だけが誅殺を免れています。
赤壁での大敗、皇帝となる野望をくじかれる
献帝の権力を笠に着た曹操は、破竹の勢いで勢力圏を拡大していきました。
「曹操に敵なし」と言われ、天下を支配すると思われたとき、赤壁(せきへき。現在の湖北省咸寧市赤壁市)において孫権と劉備の連合軍に大敗します。
この赤壁戦によって、曹操の「天下を掌握し、自らが皇帝の座に就く」との野望は永久に閉ざされたと言えます。
216年(建安21年)、魏国の王となった曹操。表向き「自分は文王であれば良い」と言って皇帝の座を狙っていないなどと嘯いていましたが、現実では天子※の冠をかぶり、天子の旗飾りを持つなど、天子に相当する対応をさせていました。
※天子(てんし)=天の子。天から地上を治める命を受けた君主のこと。漢代では皇帝に同じ。
おそらく全土の権力を手中に収め、世間が否応なしに曹操を皇帝として認めざるを得ない状況となるまで待っていたのでしょう。大勢の人々の意に反し、無理に皇帝の座についても短期間で政権が滅ぶのが中華の常だからです。現代だけ例外。
曹操は最後まで皇帝になる野望を棄てず、六十歳を過ぎてから宿敵の劉備を討伐するため漢中(かんちゅう)へ向かいました。しかし攻めあぐね、ついに劉備を倒すことができず「鶏肋(けいろく)」との言葉を残して撤退しています。
「鶏肋」とは鶏ガラのことで、
「漢中は食べるところのない鶏ガラのようなもの。取っても利益はないから撤退する」
ということ。つまり負け惜しみのような言葉です。
ちなみにこの「鶏肋」という暗号をただ一人解読した家臣、楊修(よう・しゅう)は褒められるどころか、賢さを疎まれて処刑※されました。
※揚修の処刑:後編参照
死と陵墓
揚修の処刑からしばらくして曹操も死去しました。西暦220年、享年66歳でした。脳の病が重くなり唐突に死亡したようです。
葬儀と墓については「古式にならうな。喪に服す期間は短くしろ。金銀の豪勢な副葬品はやめよ」と遺言したとされます。
近年、中国共産党が曹操の墓を見つけて調査したところ、遺言通りに華美な副葬品が無かったとのこと。…ただし「華美ではなかった」とは言っても、皇帝ほどではなかったというだけのことで実際は一般民が腰を抜かすほどの贅沢な副葬品が残っていたようです。さらに言えば、曹操の墓には何度も盗掘された跡がありました。盗掘し尽くされた後に捨て置かれていた物なのですから、「皇帝陵墓ほどのぜいたく品が無かった」のも当然でしょう。それでも当時の最先端の陶器などが残っていたわけなので、曹操が墓に入った当時は相当に価値ある金品が副葬されていたはずです。
曹操は多くの人に恨まれていることを自覚していたのか、墓を暴かれることを非常に恐れていました。そこで攪乱のために幾つもの墓を建てたと言われています。そこまでしても本物の墓を暴かれて盗掘されただけではなく、遺骨も粉々に砕かれていたのですから、同時代の人々が曹操に対してどれほどの恨みを持っていたか分かるでしょう。
「曹操が悪役となったのは三国演義、フィクションのせい!」と曹操信者たちは主張していますが、その前にリアルタイムの現実背景があったことを理解すべきです。
フィクションの創られる遥か前、同時代に生きた人々の評価こそが三国時代の人物評を決定したのです。
生涯、虐殺と処刑の日々だった
ここまでの話では省略してきましたが、曹操は大勢の無実の人を殺した殺戮王です。
たとえば曹操が徐州で一般住民を大虐殺したことは昔から有名です。最近になって「曹操の徐州虐殺はデマだ。フィクションの作り話だ」と声高に叫び、虐殺を無かったことにする歴史修正の運動が行われていますが真っ赤な嘘。後半記事で解説している通り、曹操によるジェノサイドは現実に行われました。
「曹操様は徐州虐殺以外ではクリーンだった、清廉潔白な正義のお方だった」という信者たちの主張も嘘。曹操は他の地域でも大量の住民を虐殺しているほか、投降してきた捕虜も生き埋めにしました。さらに、宮廷では自分に都合の悪い人たちをたくさん粛清し、自分に尽くしてくれた臣下たちも気分で殺しました。
曹操の殺人癖は若い頃からのこと。おそらく十代後半から死ぬ直前まで、人を殺したことがない日はなかったのではないでしょうか。
もちろんこれはフィクションの話ではなくて史実の話。『演義』というフィクションの中の曹操のほうが残虐性を控えめに描かれているのです。
これら史書に記された殺戮の話は書ききれなかったので記事を分けました。後編で解説しています。
後編:
歴史家の評価
アイキャッチ画像で引用している華流ドラマ、『三国志Three Kingdoms』では曹操の人物紹介で
「三国志演義」では、劉備に対する適役として描かれているため、一般的にも悪人のイメージが強いが、歴史的には多くの功績を残した人物として評価されている。今回のドラマ『三国志Three Kingdoms』は、「三国演義」をもとにしながらも、客観的な視点が重視されており、曹操も残虐非道な支配者としては描かれていない。
などと書いていますが、現政権の言論コントロールを受け※、曹操による虐殺などの不都合な話を全てカットしてクリーンに仕立てた妄想話のどこが「客観的な視点が重視されているドラマ」なのでしょうか? 歴史を捏造するご都合主義のことを現代中国では「客観的」(笑)と呼ぶのですか。
なお、曹操を悪人として見たのは『三國演義』が初めてではなく、上でも書いたように同時代の人々が最初です。これは私だけの感覚で述べているのではなく、正史を始めとしてその痕跡が数多くの史書に残されているので間違いはありません。
現状を知っていた同時代の人々による記録を一切無視する、捻じ曲げて正当化してしまう、という曹操信者の態度を日本では「ご都合主義」と呼びます。
曹操崇拝というカルト宗教にはまって脳がご都合主義で満たされる前に、本当の曹操を知るべきです。
この記事では最後に、同時代の歴史家による評価を引用しておきます。
※現政権の言論コントロールを受け:後編の記事、後半参照
乱世の姦雄
曹操が「乱世の姦雄」と呼ばれるのはフィクションである『三國演義』のなかだけではなく、史書に記された話です。
『異同雑語』によれば、人物鑑定をしていた許子将に曹操が「自分はどんな人物か」と訊ねたところ、
「あなたは平和な世なら能臣、乱世なら姦雄だろう」
と答えました。この逸話から曹操は“乱世の姦雄”と呼ばれるようになりました。
なお、「姦雄」とは腹黒くて悪知恵をはたらかせて英雄となる者、という意味。評判の悪かった曹操を皮肉ったのだと思いますが、何故か本人は喜んで笑ったそうです。
陳寿の評価
正史『武帝紀(曹操伝)』を記した陳寿は、曹操を始祖と崇める晋国の歴史担当役人です。このため曹操について都合の悪い史実は書けませんでした(本文から注意深くカットしているのが分かります)。
当然、人物評価でも本心を綴ることはできなかったと考えられます。この背景を割り引いて読む必要がありますが、彼は曹操についてこのように評価しています。
曹操は権謀のかぎりを尽くして天下を駆けめぐり、よくこれに対抗した。かれは、申不害・商鞅の法術と韓信・白起の奇策を兼ね備え、適材適所に人材を登用してかれらの能力を発揮させ、感情をおさえ計算に徹して、その人物の過去にこだわらなかった。
ついには皇帝としての役割まで担うようになり、大業を成し遂げることができたのは、その機略がもっともすぐれていたからである。かれこそは並みはずれた人物であり、時代を超越した英傑というべきであろう。
〔翻訳文:『三国志英傑伝1』徳間書店 P122〕
陳寿は曹操を褒め称えなければならない立場だったにも関わらず、人格に関しての称賛を避けていることは注目に値します。さすがに虐殺魔として知られていた曹操の人格を褒め称えることは歴史家の矜持に反する、と思っていたのでしょうか。
これが現代の中国共産党なら史実を歪めて人格までも高潔に作り変えてしまうところです(現に今、曹操に関してそのような無理やりの歴史修正を施しています)。
古代の歴史家のほうが、現代の歴史学者よりも遥かにマシだったということになりますね。
魏書の曹操崇拝
正当な王朝として魏を讃えるため書かれた『魏書』は、それこそ中国共産党による毛沢東賛美のようなもの。かなり偏った曹操崇拝の書物と言え、曹操について神様のように手放しの称賛を浴びせています。
たとえば
「兵法は孫子に則った神業」
「人物眼は人並みはずれていた」
「大変な読書家」
「詩を嗜み、楽器演奏に長けていた」
「武芸に優れていた」
「質素な倹約家だった」
…等々、歯の浮くような称賛が並び完璧な英雄として持ち上げられています。
現代の曹操崇拝で語られている人物像は、ほとんどこの『魏書』をベースとした“新解釈”という名の創作でしょう。
曹瞞伝の批判的な評価
いっぽう曹操に批判的な『曹瞞伝』は、曹操嫌いの呉人が書いたそうです。
現代で言えば欧米メディア(たとえばBBC)や、反中共メディアの『大紀元時報』による習近平記事に喩えられるでしょうか。
曹操信者たちは当然ながらこの史書を嫌って、「全文デマだ」と主張しています。
『曹瞞伝』に少々偏りがあることは確か。ただ、根拠もなく決めつけて全否定するのは誤りと思います。
『曹瞞伝』には正史本文と照らし合わせて一貫した人格を表すと思われる記述が多く、全部デマとは思われません。むしろ、魏や晋の言論コントロールが及ばない地で書かれた史書なので、『魏書』より信ぴょう性が高いと言えるでしょう。
たとえば現代『大紀元』の記事にも時々妄想的な内容や大きな誤りがありますが、ほとんどは欧米メディアの取材に沿った、事実に基づく批判が綴られているだけです※。『曹瞞伝』もそれと同じではないでしょうか。
※ただし『大紀元』の運営は道教の宗教団体であるため、敵である儒教を弾圧した曹操や始皇帝に関しては中共と同じく称賛するというダブルスタンダードの立場を採っています。中国史の記事は鵜呑みにしないよう注意。
つまり言論統制が厳しく行われている独裁国家内のメディアと、言論統制が及ばない外国メディアの記事ならどちらが信ぴょう性が高いか?という話です。圧倒で後者と言えるはずです。
この『曹瞞伝』に書かれた曹操評は下記の通り。
曹操は、軽薄な人柄で、威厳に欠けていた。音楽が好きで、いつも役者を側にはべらせて、昼も夜も遊びくらしていた。…
だが、法の適用にさいしては、まことに手きびしかった。部下の将軍が自分よりすぐれた作戦計画を立てると、あとでかならず法を犯したとして誅殺した。…
〔翻訳文:同上 P125〕
他にも、女性の膝を枕にして昼寝をしていたが、女性が起こしそびれると怒って彼女を殴り殺した。
討伐に赴いたときに兵糧が心細くなってきたとき、兵糧係の案で升を小さくしたが、この計略が兵士たちにばれて曹操の悪評が立つと「兵糧係が横領していた」と言って処刑し晒した。
…等々残虐なエピソードが挙げられ、「曹操が嘘つきで酷薄な人物であったことはかくのごとし」と結ばれています。
これらエピソードの詳細さと具体性から、ただのデマとは考えにくいと思います。
また、軽薄さと嫉妬深さ、懐疑心の強さ、平気で嘘をつき人を殺す性格は正史本文や他の史書とも一貫しています。これは前述した通り、現代精神医学などで裏付けられる人格特徴「サイコパシー」を表し、記録文として筋が通っていると思われます。
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