超簡単!さくっとわかる三国志あらすじ【現代日本人向け】
前記事で「『三国志』は現代中国をウォッチするにも必須の知識」と書きました。
そうは言っても忙しい現代ウォッチャーさんたちが小説や漫画を読むのは大変。
「とりあえず今は、さくっと知りたい!」
という方のために一記事で読めるあらすじ文をご用意しておきます。
ただしいつか皆様が小説・漫画を読まれるかもしれないから、途中までの紹介としておきます。結末のネタバレは無しとしましょう。
その代わり現実で役立つ知識となるように、フィクションと史実の違いにも触れておきます。
“中華の人たちの心を育てた物語はこんな感じ”
という雰囲気だけでも知っていただければ幸いです。
Contents
『三国志』を100字以内でまとめると
まず、1分も時間がない人のためにものすごく単純に『三国志』をご紹介すれば……
「主人公の劉備が関羽・張飛・趙雲ら豪傑たちの助けを借りながら、天下征服を狙う曹操に抗って国を守ろうとする。後に劉備の仲間となった諸葛亮が“天下三分計”で曹操の野望を阻止し、大陸は三国時代へ突入していく。」
以上100文字。
〔参考。日本語での読み方〕
劉備…りゅうび
関羽…かんう
張飛…ちょうひ
曹操…そうそう
諸葛亮…しょかつりょう(孔明/コウメイのこと)
天下三分計…てんかさんぶんのけい(中国大陸を三分割して統治すること)
実際フィクションの『三国志』でさえもう少し複雑ですし、現実の三国時代はさらに複雑怪奇なのですが、時代の骨格を読み取ればこういうことになるのではと思います。
もう少しだけ時間のある方は、次の項目以降をお読みください。
物語の始まり
三国時代は混乱から始まります。漢という大国の衰退、暴動、そして長い内戦の幕が切って落とされます。
黄巾の乱が起こる
むかし、むかし。日本で言えば卑弥呼様の時代より前。
中華大陸に「漢(かん)」という広大な国がありました。
漢の人たちはとても豊かな暮らしをして高度な文化を築きましたが、国の成立から400年ほどが過ぎ、次第に政治が腐敗して国が衰えていきました。
そんな折の西暦184年、暴動が起きます。
それはある宗教団体が起こした革命宣言がきっかけでした。革命とは名ばかりの暴動は大陸全土に広がり、略奪と殺戮で一般民たちが苦しめられます。
暴動をしずめるために世に出てきたのが、三国時代の英雄たちです。
我らがヒーロー、『三国志』主人公の劉備もそのなかの一人でした。
黄巾乱、史実は?
184年当時、暴動の首謀者である五斗米道(ごとべいどう)という道教系の団体信者たちが、頭など体の目立つ所に黄色い布を巻いていたことからこの乱を「黄巾(こうきん)の乱」と呼びます。
★何故、黄色なのか? 黄巾の乱スローガンについて詳しく解説:
この暴動事件は歴史的事実です。
はじめは漢という国の腐敗に怒った教祖が「革命」を成し遂げるために起こした乱だったのですが、やがて流民たちが参加したために、一般民に対する略奪に明け暮れる“盗賊集団”に変わっていったようです。
この点、現代の香港デモなどの市民抗議とは真逆ですから注意。
(中国共産党は今、香港デモ隊を黄巾賊にたとえて「暴徒」「賊」と呼び、討伐する香港警察を三国時代の英雄になぞらえ称えています。これは全く逆の嘘ですので信じてはいけません。盗賊であり暴徒だった中国共産党が政権奪取し、居座ったまま残虐行為を続けているのが今現在の中華大陸です)
黄巾乱によって大陸は荒廃しました。四百年も続いた漢という大国が滅亡する直接のきっかけとなったと言われています。
英雄登場
(C)KOEI『三国志14』より、劉備。この劉備はめずらしく(笑)美形さんですね
たくさんの人々が殺されていく悲惨な大陸を眺めて、「なんとかしなければ」と立ち上がったのが劉備という青年です。
北方の片田舎で、筵(むしろ)を売る善良な庶民としてつつましく暮らしていた劉備ですが、ある日母親から「お前は漢皇族の子孫である」という衝撃の出自を教えられます。彼はその運命を背負い、世の中を良くするために立ち上がる決意をしました。
その後、劉備は街でたまたま知り合った関羽、張飛という豪傑とともに桃園で「義兄弟の契り」を交わし、ともに乱を鎮める旅に出ます。
さてさて。冒険の旅に出た三兄弟の活躍はいかに!? ジャジャーン……!
桃園結義、史実は?
何故か書いていて恥ずかしくなり変な汗が出てきました。
(個人的な事情です。フィクションファンの方ごめんなさい)
この主人公たち登場シーン、劉備・関羽・張飛の三人が「兄弟のような深い絆」を誓って契りを交わす場面は
「桃園結義(とうえんけつぎ)」
と呼ばれています。日本では一般に「桃園の誓い」と訳されます。
フィクションにおける主人公の登場シーンであり、観客&読者がワクワクするところであるらしいです。ぜひフィクションでお愉しみいただければと思います。
「オッサン同士が桃の花に囲まれ盃を交わす」というお話は、思わずいじってしまいたくなる素敵な設定(笑)なのですが、残念ながら史書にはこのような話は記されていません。
『三国志Three Kingdoms』より桃園結義シーン。
ただし、三人が兄弟以上の強い絆で結ばれていたのは史実です。そんな本質的な真実をデフォルメした最高のフィクション設定と思います。
中華圏の人々が『三國演義』で最も胸を熱くするのは、この三人に“人間同士の絆”があるところ。情に厚い中華の人々は、彼らの深い友情に共鳴して湧くのです。世界一、心の温かい人が多い民族なのかもしれません。
もう一つ中華の人々が心惹かれ燃え上がるのは
「庶民だった劉備がたった二人の豪傑を率いて身を興した」
というところです。日本人にも「裸一貫からの立身出世」や「弱者の一発逆転」という設定に歓声を上げてしまう人は多いでしょう。こういう逆転物語が大好きなところは華人と日本人の共通項です。
冷や水を浴びせるようですが史実を述べますと、若い頃の劉備は洒脱な街の遊び人でした(劉備の史実像については別記事で後述します)。街で話題のお洒落な人気者であって、田舎臭くてつつましいフィクション劉備とは真逆の人と思います。
しかし「どれほど遠くからでも友人を助けるために駆け付けた」といった記録、ほかの生涯全体の行動からも、劉備が大変に義理人情・友情に厚く、弱きをたすけ強きをくじく精神の人であったことは史実と言い切れます。
つまり史実の劉備は典型的な少年ジャンプ的ヒーローだったわけです。
【史実の劉備はこちらで詳しく解説中!】
そんな劉備が中華で大衆人気を集めたのは、古代の華人に少年ジャンプ的な感性――正義は勝つ・友情第一主義――があったからこそでしょう。
(もう少し正確に言えば、長きにわたって『三国志』などで養われた東洋精神を現代に蘇らせているのが『少年ジャンプ』原則なのだと言えます。だから集英社の凋落が嘆かわしい)
このような民族が「古代から100%残虐で人間の心を一切持っていなかった」という現代のヘイト誹謗中傷は完全に嘘。あり得ないことだとわかるのでは?
★決して現代中国を擁護し、中共という国を無条件で信じろと言っているわけではありません。筆者の中国人に対する考え方はこちら:
次々と現れる悪人たち
『三国志TK』より、董卓の専横
世の中への船出をしたばかりの劉備たち三人の前に立ちはだかるのは、極悪非道の悪人たちです。
劉備は黄巾乱の鎮圧戦で大活躍して官位を得ました(国家の役人になったということ)。ところが、中央の都から訪れた上役からワイロを要求され、断ったため位を失って振り出しに戻ってしまいます。
その頃、都でも様々な乱が起きていました。都の荒廃に乗じて中央の権力を乗っ取り、幼い皇帝を操り人形として好き勝手なことを始めたのが董卓(とう/たく)という盗賊。
董卓は都で虐殺や強奪、レイプ等々の悪行を重ねたために大勢の人々から憎まれ、ついに全土の豪族たちによって「董卓討伐軍」が結成されます。
この軍には後に台頭する曹操(そう/そう)も参加していました。
董卓は都を焼き払うことで無理やり移し、さらに暴虐を続けます。しかし腹心の家臣であった呂布(りょ/ふ)の反乱にあって殺されてしまいました。
ようやく平和が訪れる……と皆が安堵したのも束の間。
今度は曹操が皇帝を操り人形とし、丞相(じょうしょう。第一位の大臣の座)について権力を得ます。
董卓の後釜として権勢をふるう曹操は、またたくまに各地の豪族を打ち破って制圧していきました。
この間、曹操は残虐性で中華史トップに挙げられる「徐州の民衆虐殺」計2回にも手を染めています。粛清処刑や拷問も思うがまま愉しむ日々。まだ若い皇帝は曹操に虐げられ、恐怖に震えあがります。
こうして漢全土の地獄化はいっそう進むことになります。
悪役たちの残虐行動は、史実ではなかった?
日本の吉川英治などの作品では、曹操は織田信長にたとえられて魅力的な人物に仕立てられることが多いようです。確かにそのほうが物語としては面白くなるのでしょう。
最近の中国共産党が制作したドラマ『三国志Three Kingdoms』でも、中華史上初めて曹操が魅力的な人物?として描かれたようです。「党の命令に従って仕方なく曹操を良く描いてやってる」、という監督さんの意識がありありと滲み出ていたそうですが。
いっぽう、中華古典の『演義』で曹操は完全なる悪役として描かれます。
そんな『演義』フィクションには脚色があると主張されていますが、はっきり言えば董卓や曹操の暴虐はほぼ史実。
と言うより、フィクション物語なのですから目も当てられない残虐な話は抑えられているほうだと言えます。現実はもっと酷いことが行われました。
史実の曹操による蛮行リストはこちら:
最近、ネット上で曹操や董卓を「本当は善人だった。正義の人、すばらしい英雄だった」と言って称賛する書き込みが増えています。さらに渡邉義浩ら中国共産党の御用学者たちが、書籍にて「曹操サマは史実では善人で正義の方であらせられた」という話を捏造しているので益々鵜呑みにする日本人?が増えている状況です。
始皇帝についても同じような善人キャンペーンが繰り広げられている。
どうも彼らは虐殺やレイプなどにふけった人物が大好きで、反射的に崇拝してしまう習性を持つようです。
史実として董卓や曹操の若い頃に正義に見えなくもない振る舞いがあったことは事実でしょう。「悪人」と呼んで客観的な観察を排除してしまうのもまた愚かなこと。しかし、サイコパスはどこまで観察してもサイコパスでしかありません。
どれほど異常な快楽殺人者でも、日常を探し尽くせば正義であるかのような振る舞いを見せます。それはたいてい自分がサイコパスであることを隠すための装いなのですが、そのような表面的な善行を拡大解釈して「完全正義のお方」と呼び、いっぽうで残虐行為は歴史捏造して無かったことにしてしまう、あるいは正当化して称賛する。これはファシズムや共産主義独裁と同じ、狂った崇拝と言えます。
虐殺を褒め称えるのは人類に対する裏切りであり、許されることではありません。物語の面白さの前に人類を裏切ってはならないのです。無知な日本人は騙せても、中華の民はそのような裏切りを許さないでしょう。
劉備、反旗を掲げスターダムへ駆け上がる
映画『レッドクリフ』、劉備軍 (http://blog.tospa.shop-pro.jp/?eid=19より)
皇帝を操り人形にして、漢という国そのものを奪い取ろうとしていた曹操。
そんな曹操に立ち向かおうとしたのが劉備でした。
曹操が権勢をふるっていた当時、劉備は曹操に引き立てられて都へ迎えられ、皇帝とも会話できる立場でした。
劉備が皇族の子孫だと知った皇帝は、親族のよしみで彼に「自分を救ってくれ」と頼みます。その後、董承(とう/しょう)に曹操暗殺の命令が降ったとき、劉備は協力することを誓いました。
しかし暗殺計画は未然に発覚してしまい、協力者たちは全員処刑されてしまいます。
たまたま曹操の命で外出していた劉備だけは処刑を免れて逃亡し、曹操へ戦いを挑むことになります。
曹操への反抗、フィクションの裏の史実
時の皇帝だった献帝(けんてい)が劉備に「自分を救ってくれ」と頼んだかどうかは定かではありません。しかし劉備は曹操暗殺計画に参加することを誓っているので、献帝に同情していたことは史実でしょう。
破竹の勢いで中華全土を手に入れようとしていた曹操。
国民たちは虐殺王の独裁が間近であることに恐怖を覚えていました。
だが誰も曹操に抗うことができない……。
そんなとき劉備は曹操に抗ったわけです。
中華全土の民が沸き立ち、劉備人気が爆発したことは言うまでもありません。それまでおそらく無名に等しかった劉備は、一躍スターダムの座へ駆け上ります。
現代でたとえるなら:
この当時の劉備の状況は、今現在(2021年末)中国共産党の独裁支配に抗っている、台湾の頭首・蔡英文さんの状況によく似ています。台湾は今のところ小さな島国ですが、蔡さんの呼びかけは自由主義の希望として世界中の人々を動かし始めています。おそらく台湾は軍事的には勝ち目はないので、単独では潰されること必至です。しかし独裁への抵抗心は必ず世界中を巻き込み燃え上がることでしょう。
この蔡英文さんのように、劉備というたった一人が立ち上がり点けた火が大陸全土へ燃え広がったのが「三国時代」です。
そんな時代の本質をよく理解しているからこそ、中国共産党と日本左翼は劉備を徹底的に貶めています。劉備を貶めるということは、自由民主を叩き潰すということです。
劉備に熱狂した一般民の反応は史書に記されていませんが、近現代と照らし合わせてこの程度のことは推測できなければなりません。
どうして劉備が「民間のヒーロー」となったのか、どうして蜀が今でも語り継がれるほど人気なのかという謎の背景には、全て当時の民の意思があるのです。
逆に言えば、民の意思が無ければ歴史はあのように動いていません。『三国志』フィクションも生まれていません。
史書に記されていない民の意思・行動こそが歴史そのもの。古代の中華世界の真相は、民主なのですから。
敗北、亡命生活のなかで出会った青年
『三国志TK』より三顧礼の場面。諸葛亮を演じているのは陸毅氏、日本にも馴染みの深い1976年生まれの俳優さん。
劉備は曹操に戦いを挑み健闘しましたが、敗北して関羽や妻子を奪われてしまいます。
劉備はその後も袁紹(えん/しょう)のもとへ身を寄せるなどして戦い続け、味方も得て健闘。
しかし袁紹が死に、曹操が自ら大軍を率いて攻めて来たので、敗けを認めて荊州(けいしゅう)という地の劉表(りゅう/ひょう)のもとへ亡命します。
ここから十年近く、劉備は戦うこともなく荊州で身を潜めていました。それまで馬に乗っていたために太ったことのない腿に肉がついたことを嘆くほど、長い亡命生活でした。
そんなとき出会った27歳の青年が諸葛亮です。
劉備は諸葛亮へ三顧の礼(さんこのれい)を行い、参謀として迎え入れます。このとき「天下三分計(てんかさんぶんけい)」という戦略を受け取り、将来の方向性を見出します。
それから劉備は諸葛亮を深く信頼し、「水魚の交わり(すいぎょのまじわり)」を結びました。
こうして諸葛亮が登場してから『三国志』第二幕が始まり、「天下三分計」に従って物語が展開することになります。
三顧礼って、ホントに史実なの? 嘘でしょ? byアンチ
「三顧の礼」とは、偉い先生に礼を尽くすため三度訪問することです。古代の王様が、軍師(ぐんし。戦略家のこと)や思想家などを迎えるときの儀礼的な形式でした。
当時、既に大スターだった劉備が二十歳も下の青年、しかも会ったこともない諸葛亮に「三顧の礼」を尽くして迎え入れるなど確かに非現実的な話です。
一見フィクション設定にも思われますが、実はこの箇所は史書にも記された事実です。
と言うより諸葛亮本人が「三顧礼をしていただいた」と自分で書いているので、疑いの余地がありません。これこそまさに、嘘みたいなホントの話。
(妄想しかできないアンチは「三顧礼がホントのわけがない! 諸葛亮が自分を良く見せるために行ったデッチアゲだ」と主張しているのですが、諸葛亮は彼らと同次元のくだらない嘘をつくタイプではありません)
劉備と諸葛亮の初対面には異説があり、諸葛亮のほうが先に劉備を訪問したと記されています。
おそらくこちらが史実。諸葛亮が劉備を訊ね、会話したのが初対面です。
ただし、その後に劉備は「三顧の礼」を行っているでしょう。すでに対面していたからこそ何度も訪問したわけです。劉備は自分が直接に会って気に入った相手なら、遥か下位の者にも同等に接するし、信じがたいほどの礼を尽くす人物であるからです。これは史書に記された話。
参考:
もう一つ解説。
「水魚の交わり」とは、非常に仲の良い二人のことを表す言葉。現代日本でも使われます。
これは新参の諸葛亮があまりに引き立てられているので、嫉妬した古参の人々が抗議したとき、劉備が
「あいつは俺という魚にとって水のようなものだ(無くてはならない存在だ。あいつがいなくなったら死んでしまう)」
と答えた故事からできた言葉です。
これもまたファンタジーのような話ですが、驚くべき史実です……。事実は小説より奇なり。奇過ぎる。
客観的に見ればこれは暴挙の発言でした。こんなことを言えば火に油を注ぎ、諸葛亮は殺されかねなかったと思います。結果として無事に済んだのは劉備の人徳と、諸葛亮のその後の行動(呉へ使者として行ったこと等)によるでしょう。
なお、「天下三分計」が史実かどうかについては長い話となるのでここでは省きます。
劉備と諸葛亮の仲について:
赤壁戦で役者が揃う
この辺りで『三国志』主要人物の役者が揃う感じです。
史実としてもここで役者が揃ったように見えるのは不思議です。フィクション物語も面白いのでしょうが、史実はもっとファンタジックな気がしてしまいます。
この後、映画『レッドクリフ』で有名な赤壁の戦いなどがあり、次第に“三国時代”へ近付いていきます。
以降はネタバレとなりますので、ここで終了しておきます。
続きは長編物語で
だいぶ登場人物や出来事を端折ってしまいました。
駆け足でのご紹介となりましたが、なんとなく、ボンヤリとでも『三国志』のストーリーをイメージできましたか?
興味を持っていただけたら、いつか長編の物語を堪能してみてくださいね。
★下の記事にてお奨めの『三国志』本をご案内しています。三国志という物語が生まれた背景など、基礎から知りたい方もこちらをどうぞ:
ご注意。
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